桜井哲夫氏の力作から引用した。
この本の紹介


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VarianFry

1940年9月から1941年12月にかけてユダヤ知識人2000人のアメリカ亡命を実行した



救出された、文化人から2氏を紹介する。
ヴィクトールセルジュ(上)、ロシア革命ボリシェビキ、トロツキに近い。下はハンナアーレント女史、ユダヤ人哲学者、ハイデッガーと個人的確執を火だねに残す。

もしヴィシー政権下に居残っていたなら、両氏はナチスに引き渡されたであろう。(ヴィッシーとナチスは無条件の特定個人引き渡し条約を結んでいた。香港市民がそうした境遇に陥る法改正に反対デモするのはムベなるか2019年8月)
レヴィストロースにして「先住民の思考は文明人のそれと隔たりはない」を開陳していた。これは「アーリア人最高」なるナチスの「誤謬」とは全く異なるのだから、彼もナチスに引き渡されたかも知れない。



行間の緊迫を探り、格闘し脱出した個人の筋道を読もう。

(下のmerle丸写真をクリック、
VarianFryのユダヤ人救出
作戦アラカルトに入る)



Fryの救出作戦、セントルイス号事件、今も多くは語られない。選別と排除、ホロコースト救出の光と影を感じてしまうのだが





Bougle

Avez-vous toujours le desir de faire l’ethnographie? Posez votre candidature


レヴィストロースをサンパウロ大学教授に選んだ高等師範学校長、(一時代、いや二時代前お方と見える)
JeanMalaurie民族地理学 CollectionTerre
Humaine(人間の大地叢書)の創始者、悲しき熱帯は第2回配本 2019年5月現在97歳で講演など活躍。ー死んだらイヌイットの氷の大地に埋葬してくれー

悲しき熱帯 ポケット版
(1000円で一年楽しめる)




最後の希望
Paul Le Merle丸
(写真クリックVarianFryに
 部族民通信ホームページ   開設 令和元年5月20日 更新
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 酋長   人類学の章  悲しき熱帯の真実 1
 蕃神
   

前文:本ブログサイトに...(以下は略、前文の全体はクリック

(2019年8月13日加筆に飛ぶ)

本文:

1955年に出版された悲しき熱帯(TristesTropiquesクロードレヴィストロース著)は1935年から作者の生活、旅亡命、調査など20年の出来事を、思い出すままに書き連ねた作品です。パリは洛陽その紙価を高めた大ヒット作でもあり、構造主義の旗手との位置を世の中に知らしめた作品です。小筆にして原文に接するは初めてながら、辞書を片手に読み進めるなかにあらましを語らんと決意した次第である。

写真はポケット版はネット通販にて購入可能。

 

特徴;

1 文体は言うところのレシ(recit)で語られている。

主人公「je私は」の語りを通し、筋の流れが進む。例えればジッドの狭き門、古典「土佐日記」で用いられている「journal」のスタイルである。「私なる」男が外界世界をどのように受け止め、解釈を深めていくかに本書のテーマが成り立つ。学術文になり得ないから人類学、哲学の素人にも分かりやすい。反面、森羅万象の取り巻き世界を神の目の三人称で分析するロマン(roman)と較べ、投げる視点の目の先が足下を越えない。筋道の仕掛けが拡がらないとされるが本書はいかに。

 

2 1954年、レヴィストロースはコレージュドフランス(College de France)教授職、人間博物館(Musee de l’homme)館長職の就任を学会の主流派(ノルマリアン:高等師範学校の卒業生で構成されるらしい)から拒絶された。レヴィストロースはソルボンヌ学部卒。失意の彼に友誼の手を出したのがマロリー(Jean Malaurie、歴史地理学、イヌイット研究者、鯨街道allee des baleines,鯨骨を列に並べたカムチャッカ先住民の祭祀跡の調査で著名、20194月現在97歳にて存命)。「人間の大地叢書Collection Terre Humaine」向けに書き下ろしを依頼された。

この叢書はマロリー本人が創設し、自身の筆になる配本第一回の「Thule族最後の王」は世間を賑わした。

出稿条件は人類学の資料価値を持ちかつ「一般読者が読める」。これは難儀であったろう。当初3人称で執筆を予定したが、recitに換えた(本人の述懐YoutubeApostropheから)その意図は「一般読者」への焦点合わせにあると思う。

レヴィストロースは195410月から、4ヶ月で書き上げた(本書の奥付から)。今から65年前、海のこちらニッポンは♪お富さん♪(春日八郎)昭和29年、浮かれ元年である。

(余談;Maluarie学歴はHenriIV名門校ながら高卒、Ecoleに入学したがナチス兵役を拒否氏、逃亡した。極地民族の研究に専念した)

 

3 497頁に及ぶ大作にはあるがフランス語初心者にも原書で読み下せる。素直に面白さにのめり込む読感は原文挑戦の報酬と言えるか。文体の魅力、曲がりくねりの修辞、思考過程の絡繰りが行間に脈絡として潜む。思考根本に構造主義が確かに居座る。表現と思索のつながりと乖離、この境目が知的好奇を奮い立せる。理解に至る深さ浅さも己れ次第と思いこもう。

ある方が「リセ上級=高校生に理解できる程度」と判定した(と聞いた)。誠に正しい判定であろう。小筆にして、一行数語一頁の意味を求めるに幾度も頭をひねる。小学生程度の語彙力ならば致し方ない。

皆様には原書の読みおろしを勧めます。

「悲しき熱帯」完訳(川田訳)は河出書房から出版された。ネット通販で今も購入可能かと。レヴィストロースが4ヶ月でさらり書き上げた語りの翻訳に、完全主義川田は14年を費やしハードバック2冊に仕上げている。渾身の訳は完璧です。あえて欠点を挙げると川田は南米先住民族の研究者ではない。訳文の調子にはレヴィストロースが抱いている先住民への愛着が感じられない。哲学的、修辞法の味付けが訳に出てこない。洒脱は薄れ、原理姿勢の川田の厳格世界に化けている3点です。

 

書き出しは<Je hais les voyageurs et les explorateurs >訳;私はあらゆる旅行者とあらゆる探検者が嫌いだ。

旅そのものが嫌いなら単数leで事足りる。定冠詞複数「lesあらゆる」の意味する処とは旅にはいろいろ種類があるが、どんな旅でも嫌いだと言っている。そしてこの「嫌い」は語義の通りで否定的意味しかない、しかしなぜ著作の冒頭に持ってきたのか。民俗学、社会人類学とは現地調査(フィールドワーク)をもって研究の基盤とする。レヴィストロースはブラジル先住民調査を2度に分け実施し、ビルマ(当時)の南西に住む回教徒系村落に(大戦の後)現地調査を敢行している。

実地調査ではない旅を幾度も経験した

これらの旅、調査を後悔するのか。本文の最終節に「旅」を後悔する顛末があるけれど、それと関連つけても面白くない。なにやら哲学的理由、あるいは修辞的意味づけがあるはずだが。

全ページの紹介は不可能なので本投稿では「非熱帯」2件と「熱帯」を一件、取り上げる。

 

非熱帯のパリ。

大戦前のフランス国内事情。学部生の頃、主任教授(心理学Dumas)の風貌、一風変わった心理調査法。1934年ある秋の日曜日は朝9時、高等師範学校学長のBougle(哲学、社会学)から突然の電話を受けた。薫陶を受けるも、それほど彼とは親しくはなかったと記している。幸運にもこの電話にレヴィストロースは対応できた。クリスチャンだったら教会に出かけていたはず。

CelestinBougle1870-1940)がレヴィストロースを新設のサンパウロ大学社会学教授に選んだ(ネットから)

d’abord je n’etais pas un ancient normalian>(47頁)最初の疑問、私はノルマリアン(高等師範学校卒業者)でないのに。学部卒の彼には当然の疑問であった。彼の地ではキャリア形成に有利なポストはノルマリアンに優先分配される(らしい。小筆は知らない)。レヴィストロースへの提案は;

Avez-vous toujours le desir de faire l’ethnographie? Posez votre candidature comme professeur de sociologie a l’Universite de Sao Paulo. Les faubourgs sont remplis d’Indians, vous leur consacrerez vos week-ends. Mais il faut que vous donniez votre reponse definitive a Geoges Dumas avant midi>同上

君は民族誌学を続ける意欲をもっているのか。それならサンパウロ大学の社会学教授に応募したまえ。あの街には路々、至る所に先住民(indians)が溢れているから、週末にちょいと外に出て実地調査ができる。気持ちがまとまったら12時前にDumas(学部主任教授)に伝えてくれ>

サンパウロ大学教授に選任された経緯である。フランス式ポストの割り振りの実態がこのやりとりで覗えます。

サンパウロ大学に新設教授職、フランスに依頼が寄せられた。依頼は外交筋、ブラジル大使館からフランス政府に依頼された。これを受けたフランス文部省は高等師範学校長に人選と任命権を下した。ここまでは当然の流れ。学長としては手駒ecurieのノルマリアンから選ぶ。必ず上位者が独断で決める、フランス式と言えます。

なお、Bougleが自信をたっぷりに請け負った路上生活している「サンパウロ街中の先住民」は赴任して、虚構と知ることになる。

学部卒のレヴィストロースはこの(公開のはずの)募集を知らなかった。そしてなぜか部外のレヴィストロースに白羽の矢が飛んできた。応募しなさいとは言い回しで、すでに彼に決まっているも同然です。推察するに、学会の主流でない民族誌学は高等師範学校のカリキュラムに無かった。(哲学の御大の)手駒からは社会学教授に適任を選べなかった。もし哲学教授であるならこの時期にはサルトルもポンティ(両者ノルマリアン)もいたから、そちらにお鉢が回ったか。確かにLevy-Bruhl Maussなど民族学者の先学の職位はソルボンヌ等の学部であった。いや、そそれは勘ぐりすぎ、教授資格試験(agregation)でレヴィストロースの論文dissertationが優秀だったからで、哲学人類学者の若手として注視されていたと前向きに考えよう(このとき25歳)。

ブラジルへの船旅(1935)で<le coucher du soleil落日に寄せる>をしたためている。これは別投稿で解説する。

 

非熱帯の旅;

サンパウロ大学、ブラジル先住民調査、1939年に帰国。まもなく第二次大戦、連絡将校として応召、そしてl’armistice=仏独休戦協定(1940622日)、2回ある休戦の第2次大戦の方。兵役の任を解かれ、住居を持つモンペリエに戻ってからフランス脱出までの経緯が語られる。

レヴィストロースはユダヤ系で知識階層、ナチスドイツの占領下では拘束される怖れが多大に残る。実際、大戦前のユダヤ系指導層、たとえばLeon Blum(左派政治家、前首相)は拘束され強制収容所に送られ、すんでのところでガス室行きだった。

(フランス南部を統治するヴィッシー政権とナチスドイツの間で、ナチスが指名する人物の無条件引き渡し条項が結ばれていた。1941年には前首班のLeonBlumなど指導層がナチスに引き渡され、幾人かはガス室に送られた)

頭上を覆う暗い雲、個人では振り払えない。悩むレヴィストロースにアメリカの社会人類学者(Robert H Lowie)から「社会研究の新しい学校」への参加招聘状が届いた。ロックフェラー財団が進めている「ナチスドイツ占領による迫害から著名人を救済するプログラム」に選ばれたのである。

 

しかし、どうやってフランス(ヴィッシー政府)を脱出するか。

かつてのよしみ、在ヴィッシーブラジル大使館にビザ発給を申請した。大使に面会の運びとなって旧交を温め(サンパウロ大学赴任に当たり面会している)ビザ発給に進み、公印を押そうと腕を振り上げた大使に、脇に控えていた書記官がなにやら耳打ちした。大使の腕が宙に止まる。パスポート余白に落ちるはずの印が脇に流れ、ブラジル行きは泡と消えた。

Pendant quelques secondes le bras resta en air. D’un regard anxieux, presque suppliant, l’ambassadeur tenta d’obtenir de son collabollateur qu’il detournat la tete tandis que le tampon s’abaisserait, me permettant ainsi quitter la France …>18

部分訳;その公印が私をフランスから出させてくれる筈だったのに.....場面は大使の実名で語られます。

 

マルセイユからマルチニク(カリブ海アンティーユ島、フランス海外県)に出航する便があると聞きつけた。(偶然にうわさ話を聞いた風で語られるが、これには裏があった)とりあえずは文面通りに紹介を続ける。

ナチスの締め付けが海外県への定期便の乗客規制にまで及んでいなかったのだろう。本土から海外県に渡る、東京から大島に旅すると変わりない、査証は必要なし。さらにマルチニクはナチス統治が及んでいないしカリブ海はアメリカの勢力圏なのでこれからもナチスが乗り込む可能性はない。この船に乗りさえすればナチスから逃れられる。一方、ユダヤ系でヨーロッパ脱出希望者は多い。出港は一隻、この便が最後となるだろう。船会社の計らいで収容限度を大きく越しての乗船が許可された。

レヴィストロースは最後の望み(Capitaine Paul-Lemerle)に乗り込めた。乗客の多くがユダヤ人。(語り口を読む限りこうした筋書きになる)

 

船は本土と海外県との定期運行を担うパクボpaquebotである。郵便貨物を運ぶために設計されている。乗客用にはキャビネットが2室、男女に分けての相部屋。合わせての定員は7。そこに350人が乗りこんだ。急ごしらえ、雑魚寝窓なしの船底には、幸運な7人を除く340人余が押し込められた。(paquebot現在の意味はクルーザー大型の客船だが、かつては貨物郵便定期船)

レヴィストロースは7人の一人に選ばれ、キャビネットに幸運にも潜り込めた。この特例待遇の背景とは船会社に「ブラジル行き帰りで幾度か乗船していた得意だったから」と慎み深く語るが信じ難い。イニシャルのみM.Bと記述される人に世話になったとさらり流した。そのM.Bが誰かは特定できない。

同室4人の男の描写に幾行か費やす。オーストリア人金属商(フランス人を押しのけて乗船なら相当な資金をつぎ込んだ筈の注釈)、ユダヤ人らしからぬ謎の北アフリカ人は「鞄valiseDegasの一幅が納まっている、これをもってニューヨークに行って一日滞在してフランスに戻る」と主張している。戦争の最中に名画の密輸、一幅に何やらいわくがあり得る。船の上での衛生状況、朝夕のトイレットの仕組み、人々の精神状態にも詳しい。

 

Victor George(スターリンと対立したトロッキィ派の共産党員、彼も追放された)Andre Breton(作家シュールレアリスト)との邂逅の様子も語られる。船上のGeorgeについて<son passe de compagnon de Lenine m’intimidait en meme temps que j’eprouvait la plus grande difficulte a l’integrer son personage, qui evoquait plutot une vieille demoiselle>20頁)レーニンと同胞だった過去を知るから、彼に声を掛けるを戸惑う。同時に、その武勇譚と人となりを重ねるには苦労がいった。未婚老女かと見違えるほどか細い風貌と立ち振る舞いを見せていた。

ナチスから逃亡に成功はしたものの、反共産主義に固まった米国を追われ1947年にメキシコで死ぬ(Wikiによる)

Bretonの様子<La racaille, comme disaient les gendarmes, Andre Breton, fort mal a l’aise sur cette galere, deambulait de long en large sur rares espaces vides du pont, il semble a un ours bleu>20頁) 訳;(乗船時に乗り込み客を一般から隔離していた)憲兵警察の誰からも屑やろうとののしられたBretonは、この徒刑船の境遇になじめず、船橋のわずかばかりの隙間を、縦に横に歩き回る姿は青い熊に見えた。(目的なく行ったり来たりする行動はours en cage檻の熊に喩えられる)

 

ユダヤ人の生き残り作戦とはヨーロッパを離れるのみ。

受け入れる側アメリカ、カナダは亡命受け入れ基準を、それぞれの思惑で作成していた(と思われる)。普通の市民、取り立てて技能は無い業績もないユダヤ人には拒否を貫いた(根拠はありません)。セントルイス号事件を例にあげる。乗客900人のアメリカカナダ上陸拒否(1939年、ユダヤ人がビザを持たず、正しくはキューバ上陸の許可は得ていたが、ドイツから出国した。ハバナに上陸する直前に入国を拒否されて上2国に回航したけれど、入国を拒否された。

一方で「この人なら」と歓迎する「選良」も設定されていた。学術芸術に分野を絞り、なにがしかの業績を上げている若手を受け入れる。レヴィストロースはこの選に入った。世界的権威や卓越した芸術家には「レッドカーペットとファンファーレ」的歓待で迎える。アインシュタインとハイフェッツはその範疇に当たる。亡命許可を受けてから半年あまり、ヨーロッパ各都市で「バイオリン巨匠、最後の演奏会」なるコンサートを渡り開いて、亡命騒ぎで大儲けした。

 

なぜレヴィストロースは逃避の旅をかくも詳細に語ったのか。

語り口に非難らしきは聞こえない。淡々と述べるその場の状況が耳に残る。伝えるその意図は明瞭に読める。一市民、大戦中の苦労を一つの逸話として記録したいがためです。

出版年は1955年、戦後10年たった。戦中の5年が記憶に重い。この期間の出来事とは休戦armistice、実は敗戦(大文字で始まるArmistice一次大戦の休戦)、戦わず兵士は除隊、無防備都市宣言パリの無血解城。屈辱の5年でした。今も誰も多くを語らない。

この体験を歴史の一断片に残すべく、レヴィストロースは己を語った。

(野生のスミレPenseeSauvage9=サルトル批判=文中に彼の歴史観が述べられる。逸話anecdotesを語るが歴史の一歩であると。その通りの記述です)

 

さて本文に綴られるフランス脱出は、文章のその意味通りに理解して「偶然に船に乗れた」運が良いうえ機会も揃った、などを伺わせています。

しかし実際はこの表書きの経緯では無かった。VarianFryの救出作戦に飛ぶ

幾つかの疑問;

1    レヴィストロースは休戦(19406)で除隊となってモンペリエに戻った。時は同じくしてロックフェラー財団救済プログラムに選ばれ招請状を受け取った。当初はブラジルビザを取得してフランス脱出を試みたが、在ヴィシー大使の裏切りに遭い頓挫した(前述)。この時点で7月は過ぎていたと思う。8月にチャーター船(LeMerle丸)が最初の出航なので乗り込んだ。機会としてはできすぎている、そんな気がした。

2    第一回目でしかも特待乗船(キャビンのベッド寝泊まり)。この待遇の背景を語らない。VarianFryセンターについても語らない。Fryから査問、あるいは面会を受けているはず(彼のチャーター船だから)ロックフェラー救済センターからの推薦ないし示唆があった故の第一回の特待乗船の筈だ。一切を語らない。

3    前回に触れたセントルイス号事件(アメリカが亡命を拒否した)乗船客はユダヤ系ながら一般市民。Fryが選んだ乗船客は芸術、学術、音楽でかくも豪華な顔ぶれ。改めてユダヤ人の生き残りスクリーニング(選り分け)が徹底していたと感じる。


以下は加筆(2019年8月20日)
注)ブラジル先住民の再調査、帰国、教職に就業、徴兵、除隊、人種法により公職解雇、アメリカ亡命。これら難事が1939年から40年の2年の間にレヴィストロースに襲いかかった。「世界戦争の世紀、20世紀知識人群像、桜井哲夫著、平凡社2019724日発行」にはその期間のレヴィストロース行動が詳しい。世間離れした判断もしていたと指摘している。除隊の後19409月にヴィシーにおもむき(前に任命されていた)アンリ4世校に復帰したいと願い出た。中等教育局長はユダヤ系の名前を持つ彼に「(ドイツが占領している)パリに送るわけにはいかない、しばらくセヴェンヌに居残り」と忠告した。ユダヤ系ながらも彼は「あまりにも(民族が危機に曝されている)政治状況に鈍くて無防備な状態だった」(本書568頁)。本書でもフランス脱出を可能にする船を探しマルセイユを適当な船でもどこかにないかな、と歩いていたと書かれる。

一方で9月から救援活動をマルセイユで開始したVarianFryは、ロックフェラー財団から亡命支援者リストを渡されている(200人とある、実際に亡命支援したのは2000人)とあり、レヴィストロースに教員職の招待状を送った側もロックフェラー財団の肝いりなので、Fryへの接触の示唆はあったと思う。VictorSerge, AndreBretonなど同船した亡命者の動静も詳しい、彼らは能動的にFryに接触している。

鞄にDegasの一幅を隠しニューヨークに渡る謎の北アフリカ人はアンリ・スマジャ、後に「コンバ」誌を買収した左派活動家チュニジア人であると明かしている(574頁)
なおヴィシー政権はドイツとの間で無条件の市民引き渡し条項を結んでいる。ユダヤ人で知識階層がまず狙われたので、レヴィストロースにしてもブルトンにしても、フランスに居残っていたら強制収容所に引き立てられたコトは確実である。

(注の加筆は2019820日)