部族名の地図を載せる
(本書から)。
に詳細図。

 レヴィストロースが起こしたボロロ村の実際の配置(同書254頁)

BonSauvageとは
良き野蛮
この表現は名詞の含意に
逆の意味を持つ
形容詞を被せ、併せての
意味の構築が難しくなる効果をねらう修辞。

Oxymore(oxymoronとも)
形容矛盾
は文学表現では許されるが、学術書で用いてはならない。
と批判されたらしい。


蕃神

これら経緯は小筆生まれる前の騒動、ネットで論争状況を探したが匂わす記事に出会わない。そこで以下をまとめた。



Oxymoreって何?ロゴをクリック


野ブタペカリ種は自然に気兼ねせず、いつでも狩ってよい。そもそもはヒトの一族。無礼をはたらいて俗神カルサカイベにブタに変えられたとの伝承(生と料理での神話番号M17 )がある。

ジャガー、死者がでたときのみmori自然への貸し、として狩る名目を人が得る。
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人は死んでも意識が残る、死んだらモノに果てる
 蕃神
   

民族学、社会人類学の若き研究者としてレヴィストロースは、ブラジルマトグロッソ先住民のCaduveoカデュヴェオ族Bororoボロロ族、Nambikwaraナンビクバラ族、Tubikawahibチュビカヴァヒブ族を現地調査している。

教授職赴任の際に推薦者Bougle(高等師範学校長)が保証した「街中に原住民があふれかえっている。週末に街に出れば現地調査できる」は真っ赤なウソだった。先住民の住む地は近くても「マトグロッソ」(ブラジル中央部の高地帯)。1930年代には整備された道路など期待すべくなく、それなりの装備、補充の手だて、員数を確保したキャラバン隊を組まなければその地に接近できなかった。例えば食料は基本自給なので20頭の牛を先行させる。牛飼い、牛泥棒よけの護衛、銃器も省けない。キャラバン隊をまとめる過程、馬の選定の逸話、そして旅程も詳しく記述される。

(注:民族学は族民の習俗、慣行、信仰などが研究課題。社会人類学は族民に限らず、有文字文化にも対象を広げ、社会体制、経済なども課題として取り上げるーと小筆は区別する。文化人類学とは形質人類学(骨、DNAなど)と対比する語で、社会人類学と同一)

ボロロ族の民族学の調査の様を取り上げる。

 

ボロロの記述は興味深い、理由は2点ある。

1 マトグロッソでも最深部、峻厳な崖に囲まれた孤立地に彼らが住む。民族誌的には宣教団体サレジオ会の報告が残るものの、民族誌者らからの報告はなかった。学術として不明の部族。

2 レヴィストロース自身も村落にとけ込み、貴重な情報を採取し祭儀の場にも立ち会った。族社会が受け継ぐ信仰、言い伝えは豊かであると同時に、独自性が残る事が確認できた。「生と調理」で始まる神話学4部作には700を超える新大陸神話が引用されているが、ボロロ族の「鳥の巣あらし」神話が全ての基準(=M1)と位置づけられた。

族を紹介する章の構成は;

1    村落への接近と遠望した印象、そして感激

2    村の構成、住居、什器、被服など物質面の紹介

3    死者と霊のあり方を通して精神面の解析

に分かれる。

 

1から始める;

本書XXII章(249頁)の副題はBon Sauvage。この原義に則れば訳は「良き野蛮人」。しかしsauvage野蛮は「未開、乱暴」を伝える侮蔑語である。野蛮sauvageに「良い」を被せたら2の語をまとめる意味が通じない。主体と形容が含意するそれぞれが噛み合わないから。これを文法でoxymore (矛盾形容法oxymoronとも)とする。異質の組み合わせが思いがけない効果を生み出すけれど、そのきわどさは文学作品であれば許せる。<le soleil noir de melancolie>=物寂しさに黒く輝く太陽=は一例(Nerval)。

 

BonSauvageは矛盾形容の論争についてはこちらをクリック

 

さて;

高地を下に望む稜線にたどり着いた。レヴィストロースは遙かな視野の先にBororo村を望めた

apres des heures passees sur les pieds et les mains a me hisser le long des pentes, transformees en boue glissante par les pluies : epuisement physique, faim , soif et trouble mental, certes ; mais ce vertige organique est tout illumine par des perceptions de formes et de couleurs(248)

訳;歩きずくめの幾時間、這いつくばい両の手を坂に突いても支える身が苦しくて、その急坂をやっとの事でよじ登る。長雨、ぬかるむ表土は何ともきつい。疲れ、空腹、渇きとくじけ、果てに目眩に襲われた。それは困憊のせいかと思った、しかし光が差し込んだのだ。村、建物の形の整い、それらの色鮮やかさを目の前にし、目眩ですら恩寵に祝福された。

 (写真はレヴィストロース著作から)ボロロ族の村。中央の男屋と周囲の女小屋切り妻の屋根、男屋は切り、に方形の外周など本来の形状(楕円、段差のない屋根勾配が地に接するなど手がこむ)とは異なる。強制疎開から逃げ戻って、限られた時間に築造し直した節が伺える。レヴィストロースはこれを「ネオブラジル式」の影響としたが、伝来の建て屋を破壊し、族民を疎開させたサレジオ会を皮肉る。

解説;

illumine照らされる>を使っている。

かの国この言葉では「光りlumiere」は神と関連づけられる。 照らされるillumineは光線であるが、神のご加護、恩寵を示す。(Lumiere, c’est le Dieu, la Verite, le Bien=光は神、真実そして財産である=辞書Robert

光と輝くボロロ村を遠望できた。祝福と感激し村に入る;

 

habitations que leur taille rend majestueuses en depit de leur fragilite, mettant en oeuvre des materiaux et des techniques connues de nous par des expression naines : car ces demeures , plustot baties, sont nouees, tressees....>

訳;住まいとする建物は彼らの身長に比較し巨大で、脆弱さにかかわらず「小人の」と伝えられる技術を生かした作品である。すなわち建物は建造しているではなく結われている、織られている....木、芦、茅、紐で織り上げられる家屋、そこにまとまる村落風景とは見慣れた西欧のそれとは大きく異なる。村の一隅に居を構える。

 

什器、生活道具、被服、楽器など物質的文化を語る。特に注意深く観察し報告したのは村の「構造」である。

ボロロ村落は必ず川に面する。川は東西に流れるを規格とするが、自然なので南北側に傾く場合もある。近辺土地の衰退により20~30年で村毎、部族総出で引っ越しする。

古き村、新しきも必ず川の流れ筋と垂直に交わる(仮想)線を引き、上流と下流側とに2分割する。

2分割はcera部、tugare部と称される。

中央に男の集合小屋を囲んで、同心円状に小屋が配置されそれぞれの小屋に女達、女系の親族が住む。2にわかれた部は、内部で4の支族に細分される。都合8の支族が固有の名称をち、円周状に配置される。さらにそれぞれの支族は、上中下のカーストに分割される。すなわちボロロ族の村落は2の部、8の支族、24のカーストに分割される。

こうした村落の構造が彼らの精神と生活に影響を与える。村落構造の思想と彼らの生死観が接点を持つとの解析である。
本書BonSauvage章の記述をもとに以下にまとめると;

 

1    川。沐浴を日常の習慣とする彼らに川は欠かせないが信仰の支えとして必須である。なぜなら輪廻は魚から始まる。魚から人、オウムにと霊の個体が変身する。

Les Bororo considerent que leur forme humaine est transitoire : entre celle d’un poisson et celle de l’arara (sous l’apparence duquel ils finiront leur cycle de transmigmation>(271)

訳;ボロロ族は人の姿は輪廻の一通過点と考えている。魚(特定の種類)から人、そしてarara金剛インコに変身して、その生を終える。(transmigrationを輪廻と訳したが、魚=>インコの一巡りでお終い、人に戻らないから変身が正しいか)

2    部族の部と支族にはそれぞれ社会地位、祭儀での機能が特定される。部、支族の長にはそもそもの社会地位が備わり、地位に即した儀礼での着衣、冠(金剛インコの尾羽)、腕輪が規定されている。その規定が個人の「豊かさ」となる。

3    婚姻の規定。cera部の男はtugare部の特定の支族の娘と婚姻を結ぶ。族として族内婚であるが部と支族としては族外婚である。かつては支族が3のカーストに分割されていた。特定の支族の同カーストの娘と婚姻していた。人口減少のためか、1936年(調査の年)にはカーストの機能は薄れている。

4    成人した男は生家を離れ男屋に住む。婚姻の対象となつ支族に適齢の娘がいれば成人儀礼を通過しての後、婚姻関係を結ぶ。実際は該当する娘が生まれた時点で、男(少年)の未来嫁は特定される。家屋も耕作地も女(嫁の母親)が所有する、婿は女小屋に昼にのみ「下宿」する。時たまの仕事は狩りにでて、獲物を運ぶ。嫁の家での居心地は総じて良くない。不満で実家に戻るも、姉妹の婿(別の部)がそこに居続けると一息つけない。

5    男小屋は住まい兼祈りの聖堂です。来世の無事転生をいつもいつも祈っている。

 

ボロロ族の思想としてのの村落(282)。

ボロロはこの形態の理想として頭に描き、村落(右図)の実際(実体)にこの思想を実現せしむと願っている。思想と実体、この構図は<Les strucures elementaire de la parente親族の基本構造1950年>にて解説した交差いとこ婚の実体と思想の相関と同じである。この相関関係は、彼の主張する「構造主義」に立脚する。村落の実際と理念の差違についてはをクリック。

 

レヴィストロースが「構造主義」の主唱者とされる根拠には、その独自の思索があげられる。(目に見える)物体に対する(頭の中の)思想。2者の相互性を(思索構造の)根幹としているからである。

ボロロ族民が抱く社会の思想とは 部族が2の部に分かれ、それら部がそれぞれ4の支族に分割される。支族を継承するのは女で財産(土地、家屋)は母から娘へと受け継がれる、婚姻も特定の支族間でしか結ばれない。こうした理念が社会への思想と形成されていて、それを示すのが前に投稿した概略図である。レヴィストロースが現場で実測した図も投稿しているが、そちらは目に見える実際の物である。

この相互性を思考の根源と捉えたきっかけが、いとこ婚の研究である。本書の前作にあたる「Les stuctures elementaires de la parante親族の基本構造1947年出版」に分析が詳しい。交差いとこ婚の(思想としての)図を掲載する。(Les structures...211頁)

 

交差いとこ婚を構造主義から分析した手法はここをクリック

 

ボロロ村にもどる;

レヴィストロースは1936年に訪れた。

Si les habitations conservaient les dimentions et le dispositions, leur architecture avait subi l’influence neo-bresilienne....>250頁) 訳;寸法と配置は伝統と違わないが、様式は(先住民の伝統から離れ)ネオブラジル式に影響されている(皮肉である、前述)。

伝統的とは;

中央小屋、同心円配置が基本。その中央の男小屋平面は優雅な楕円形であった。急ごしらえなので長方形。屋根はかつて先頭からなだらかで優雅な曲線でつなぎ、茅葺きが地面に落ちる。今のそれは2段勾配の切り妻屋根に縦壁。

10年前に再興された新しい村である。1900年初頭に宣教集団のサレジア会(本部ローマ)が旧弊一掃を目的にして、伝統的村落を打ち壊し、簡易な家屋を族民に提供した。中央に男屋、同心円状に住まいを破壊したのである。

しかしこの配置が彼らの精神、信仰、宗教祭儀と関連がある。

村落の構造が心の持ちよう、精神活動の有様と結びついている。
サレジオ会が半ば強制して「平等村」に移住したところで、新しい村の平坦な家屋配置はボロロの信仰、習俗と両立しようが無かった。小筆が推測するに、平等村の個人家屋は夫婦と子供、あるいは前の世代の祖父母が居住する設計だとしよう。夫婦といっても支族は別、さらに夫は子とも義父母とも支族を共にしない。居づらいのは推察できる。これがボロロ式村では、夫が居宅に停留するのは昼のわずかな間。夜は男屋に帰って、神話語り、祈祷、儀礼に一晩費やす。この風習、しきたりが急変することはない。男が女共と同居して女には見せてはならない祭儀をどうやって実行するのか。この落差に男も女も悩んだ筈だ。住民多くが心身の不調に陥った(と講義で聞いた、アテネフランセにて)。
ネオブラジル式平等村を脱出しボロロ村を再興したのが1920年代である。

村落の配置と男共の時間の持ち方、から精神面、Les vivants et les morts 生者と死者(265頁~)に移る。

レヴィストロースはここで信仰と精霊、自然との関わり方などを語る。

ボロロ族から離れるがここでの説明は大変、興味深いので文明社会の死者生者の観念とも絡めて幾行かを費やす。世界中の民族が死者と対峙する態度は2通りに分かれると彼は主張する。

その1 認識する死者(le mort reconnaissant

reconnaissantは感謝するがもとの意味。しかしここで死者は少しも感謝はしない、意地悪に描写される。よこしまな、裏切りだけなので、解釈しすぎながら動詞reconnaitre原義に戻り「自身を認識する」死者とした、)

ヨーロッパ古民話の例で;

負債を返せないまま死んでしまった男、死体を前にしても債権者は遺族の願い埋葬を許さない(埋葬とは葬儀であり、作法に則り地に埋める。借金男が天国に旅立ってしまう)。豊かな商人が死体を買い取り手厚く埋葬する。その夜、死者が商人の枕元に立ち「これからは何をやっても儲かる、ただし利益は折半」と告げた。翌日の道すがら、王女に出会い男は求婚する。王女の返事は「良いわ」!王女すらモノにできた。新婚の床、被いをめくると王女の下半身は蛇だった。

Mais la princesse est enchantee : moitie femme, moitie serpent. Le mort revendique son droit, le heros s’incline et le mort , satisfait de cette loyaute, se contente de la portion maligne qu’il preleve, livrant au heros une epouse humanisee>268頁)

訳:魔法をかけられていた王女は上半分は女、下半分が蛇となっていた。うちひしがれる男、死者は蛇を女に化かして商人に渡したが、前もって罪深い側(portion maligne、下半身)を自分の分け前に取り上げていた。死者はそちらにすっかり満足したとさ。

恩ある商人から下半身を取り上げた死者こそ「認識する死者」であるとしている。すると認識とは、死してもなお世の仕組み、取り決めに拘泥するとしたい。

その2 起業家の騎士(le chevalier entreprenant)死者はモノ、自身を認識しない死者。

貧しい男が麦一粒を持ち行商にでた。持ち前の狡猾さで麦を雄鳥に、雄鳥を豚に、牛に換えて死体に換えた。その死体を使って生きる(正真正銘)王女をモノにした。

こちらの死体は化けて出ない、単なる物体である。モノ (le mort comme objet) として死をこき使う。生きる者に主体がある。

 

12の解析を試みよう;

1認識する死者のケース。

彼はこの世に住まないけれど、自己を認識するから居場所、在処を持つ。

定住地はあの世、そして時折、自身が必要と感じたらこの世に出現する。生者の願望を受け入れるけれど、要求するところも伝える。能力(魔法)を有する。横死、事故死など不慮の事故で死んだ者は、御利益が負の方向に強力で、この世に出てきたら人々に君臨する。脳溢血、肺ガン、老衰なんかで普通に死んだ者は名も残らず、この世に戻る頻度は滅法少ない。それでも死者集団に潜り込む。先祖代々と称して家内安全、五穀豊穣の保証などを受け持つ。しかし取り決め(祈りお供えなど)をないがしろにする生者に復讐する。

 

2死者には意識がないケース

彼は死んでも行くところがない。この世にとどまるが、モノでしかないから名前なし機能なし。引用の騎士物語では「この死体を懇ろに葬れば金が湧く」のインチキ売り込みの当て馬にされ、投機(姫と結婚)に利用された。カニバリズム(人肉食い)ネクロファジ(死肉食い)では「死者が生前にもっていた勇気知恵」を己に取り込むためなので、これも死者利用となる。死骸の残滓(ミイラ)を担ぎ出し家系、族の出自、由来を誇示する儀礼は(ミクロネシア等で)実行されるが、この死体には認識が備わらない。死者利用の一形態であるとレヴィストロースが教える。

死を利用して得しよう、儲けよう、役に立てようの道具。 すると以下の解釈にたどり着く。私見が交じるがおつきあいを;

日本の死者観を上の分類に当てはめると1となる。

死者は死後にもこの世との接点を意識している。盆には「ご先祖様」が降り立ち、幾日か滞在してお饅頭をパクと食べて満足し、あの世に戻る。すると豊作は間違いなし。沖縄先島諸島で信仰される「ニライカナイ」は訪問する「神」ながら、あの世に浮かぶ「死者」とすれば本土の風習、盆と重なる(柳田、折口が指摘している)。また浄土信仰は阿弥陀の極楽浄土に往生を願う信仰なので、強烈な極楽往生、昇天目的の意志が死者に残る。中世以降、真宗が広めたとされる(このあたりは付け焼き刃なのでご訂正を乞う)。

一方で、日本人は死者とは意識を持たない2のケースの死者観も併せ持つ。

神道の教えは死者に意識などあるものか、死は穢れ。だから捨ててしまえ。
死者を野辺に送る。野辺の先には何が待つ。捨て場である。野辺送りの葬列とは死者を「捨てる」儀礼であった。青とは元々灰の色、死の色である。全国で必ず見つかる地名が青。青浜、青谷、青山などは元をたどれば死骸の打ち捨て場であった(地名学・谷川健一)。古くはイザナミが洞穴に捨てられ、イザナギが見た姿は腐敗した青屍だった。化野に捨て場あり、捨て場に骨の乱れあり。姥捨ての伝承が広く野山に流布していたこの国は、死者に意識など無いとする合理信心の国なのだ。

お骨を「海にながす」「森にばらまく」などの風習が葬儀の一形態として受け入れられていると聞く。わたつみ葬、森林葬と称されているとも聞く。実行する遺族の心境は小筆に痛く理解できる。死んだら魂は体から抜け出る。この死骸はただのモノ、穢れの元。神道の無常が日本人の心に復活しているかと感じる。私感はお終い。

 

両の逸話が残る西洋は、キリスト教が広まる以前、死者とは両(意識する、意識を持たない)の認識があったとの傍証であろう。今は「どちら」の質問にレヴィストロースは、1の認識する死者であるーと断言する。ヨーロッパ、キリスト教の影響の下、死者は何を認識するのか。

il n’est pas douteux que l’attitude speculatrice s’est progressivement effacee au profit de la conception contractuelle des rapports morts et vivants...par la formule de l’Evangle : laissez les morts ensevelir les morts>(270)

訳;(死者をこき使う)投機への態度が徐々に薄れ、(葬儀は)死者と生者が契約する場とする思考に入れ替わった。この変遷は疑いようもない。「福音書の公式」の影響である。死者には葬儀を施し、後は放っておけば良いとする。(ここで使われる葬儀(ensevelir)は屍衣を着せ棺に安置し、焼かずに地に埋め墓標を建てるまでの儀式となる。これが死者との契約である。ここまで恩を帰せれば死者は満足する。この場合はreconnaissant認識するは感謝する、本義になる)

西洋の葬儀観、カソリック国ほど「土葬」の比率が高い。その背景についてはこちらをクリック。

世界中、全ての部族は提起された2分類で1あるいは2、ないしはその折衷型として特定できるとレヴィストロースは教える。しかしボロロ族はいずれにも属さない。12を同時に信仰する希有な族と指摘する。

Bororo章 les morts et les vivants(死者と生者)を読み進める。

信仰では死ぬと(その人に取り憑いていた霊が)金剛インコに転生する。自然に戻るからボロロ族は自然に貸しができたと信ずる。これがmori(自然への債権)である。

la mort est a la fois naturelle et anti-culturelle=中略=Le dommage dont la nature s’est rendue coupable envers la societe entraine au detriment de la premiere une dette , terme qui traduit assez bien une notion essentielle chez les Bororo, celle de mori>(271)

訳;死は自然起因でありかつ反文化である。自然にその責任が帰され社会側が損害を被る。前者(自然)に社会への負債が生じることとなる。この概念を端的に表す語がmoriである。

死を宿命、ないしは「自然死」と受け止めてはならない。
どのような場合でも「自然」が介入しボロロの男を死に至らしめる。自然が文化に「ちょっかい」を出すととらえれば分かり易い。こう捉えたならば死とは反文化である。La mort est anti-culturelleに理解が及ぶ。
自然の文化・社会に対する攻撃である。結果として誰かが死んでその者の霊は自然に飛び去り、インコに変身するのだから自然の利得として数えられる。
ボロロ族が自然に債権を持つことになる(ボロロの男と特定する。女は死んで何も残らない)。

Quand un indigene meurt , le village organize une chasse collective, confiee a la moitie alterne de celle du defunt : expedition contre la nature qui a pour objet d’abbatre un gros gibier, de preference un jaguar..>

訳:人が死ぬと村人は集団での狩りを組織する。死者の属する対抗部の成人が参加する。ねらう獲物は大型の動物、誰もがジャガーを期待する。

ジャガーは容易に射止められる獣ではない。手ぶらで帰るも多いとか。

ジャガーには利用価値がある。

族民らが我(レヴィストロース)のirara(=vertu、善行)に気づいて葬祭狩り隊長に任命してくれていれば良かったのだが。死者が出たのは到着した翌日だったから、(私を正しく評価する)時間が足りなくて、誰もそんな提案を持ってこなかったのはやむを得ない。もしやそうなっていたら、隊長の私がせしめられたのは;

le brassard de cheveaux humaines (髪でできた腕輪)

clarinette mystique formee d’une petitte calebasseanche de bammbou(奇怪な音を出す竹リード付き小さなひょうたんの楽器、獲物の皮剥に際して演奏する)

collier de disques en coquillages(貝の首飾り)

これまでがレヴィストロース隊長が持てるはずだった道具。(全てをせしめてmusee de l’homme人類博物館にでも寄贈するつもりだったろう)

la viande(おいしい肉)

le cuir(毛皮、もっとも重要)  

les dents(歯)

les ongles(爪、上の3点と合わせレヴィストロースが遺族と山分けできた。272頁)

(どう考えてもボロロ族がレヴィストロースを隊長に任命する道理がない。言葉の遊びだが、ジャガー狩りの形態と目的が理解できる)

これほどの価値をジャガーが産み出すが、それも男が死んだから。族民の死をタテに取り自然側に「難癖をつけて」、ジャガーを狩る利権を獲得し毛皮などを手にする。このやり口は死体利用での究極の2ではあるまいか。

(ボロロ族は平素、言い伝え(神話)で狩っても自然に許されるとつじつまをあわせている特定の野豚(ペカリ)、鼻熊、鳥類、魚など捕る。大型動物はジャガーに加えバクがあげられるが日常の狩りの獲物としていない)2の了
 

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