ゴッホ作 アルルの跳ね橋、現象論風に解説すると、
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哲学論争

それら抗論、批判

主題は
本質と思考
のあり様を
どう解釈説明
するか
の対立です

レヴィストロースは

1定理
2公理

を武器と用いて
弁証法、心理解析を打ち崩した。

定理は人の
存在理由
raisond'etre
である思考の
手順から

公理は
カントの先験性です。


 部族民通信ホームページ   開設 令和元年5月20日 更新
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酋長
     悲しき熱帯  弁証法、心理分析、現象論、構造主義 

      客観的統合が思考と形態を結ぶ 構造主義はそれを相互依存と教える

蕃神

 

哲学者にして人類学者クロード・レヴィストロース、
その著「
Tristes Tropiques悲しき熱帯」第2Feuilles de route (旅の紙片)61頁、上から数えて数行目、唐突に弁証法、心理分析、現象論に対する批判が現れる。自身が温めていた「構造主義」の理論を基盤としてこれら学派を批判するのだから、彼の主張とそれら説との差異が読み取れる。そもそも彼は構造主義とはなんたるかを講釈しない。よってこの一節はレヴィストロース思想の理解への近道である。その展開は1頁の短さながら、理解に至るようにまとまっている。難文ではないので早速、挑戦せむとす。

書き出し;

Au niveau different de la realite, la marxisme me semble proceder de la meme facon que la geologie et la psychanalyse entendue au sens que lui avait donne son fondateur : tous trois demonterent que comprendre consiste a reduire un type de realite a un autre ; que la realite vraie n’est jamais la plus manifeste ; et que la nature du vrai transparait deja dans le soin qu’il met a se derober.(61)

訳;マルクス主義は、地層学や心理分析と同じく、現実から一歩離れた方法をもてあそんでいる。それは心理分析の創始者が方向性を定めたやり方を踏襲している。3の理論が主張する中身とは、一つの現実を別の一つの現実に矮小化させるだけで、真の現実が見えるとは期待できない。真実の「主体」(なるモノ)は(創始者が)開発した「あからさまにする」手順(治療法)の中に透かし見えているのである。

訳注1:心理分析の創始はフロイト。主張は表層意識に対し無意識が深層に隠れ、無意識の記憶が精神疾患の原因であるとする。無意識側が真(realite vraie)とする説を標榜し、分析手法の開発とあわせ、治療に結びつけた(治療、これがetendue拡大した心理分析の意味)。治療法の中に真実の主体(nature du vrai)が透かして見える、ここは意味不明だが「真実を人の作業に「矮小化」している。だから、そこに見える主体(nature)は真実などではない(人の作業なのだから)」とレヴィストロースは言いたげ。

このままにして置く。

続く文節でレヴィストロースは「表層対真実」の対立はマルクス主義にも見られると指摘する。弁証法を教条とするマルクス主義は、歴史の断片や流れなどは単なる表層の現象で、深層に「共産世界に進む歴史弁証法の必然」のいわゆる「真実」に裏打ちされていると主張する。この弁証法、歴史確定論はレヴィストロースの歴史観とは対立している。

表層と深層に見られる対峙関係を本文では(理解を早めるために)

 

「現実」対「真実」

 

この式を基本とする、

すると先ほど心理分析で意味不明だった案件にも察しがつく。

患者の主訴(悩みとかヒステリーなど)は表層に表れる現象で、これが現実<nature du vrai>と規定できる。そして(フロイトが)開発した心理治療法での真実(=心理の深層こちらはrealite vraie、と彼が主張する)が曝かれる。過去の性的トラウマ体験などが深層に宿る真実とする説である。

弁証法しかり心理分析しかり、この対峙を問答無用の前提として、矮小化しつつ論理展開する。地層学は今ではカリウム法など年代を絶対値で確定できるなど、実質証拠ハードエビデンスに基づく正統な科学であるから、矮小化理論はない。1950年代には信頼されていなかったのだろうか。小筆は言及できない、触れない。

なお、レヴィストロースの歴史観は後の著「野生のスミレ」第9章で精緻に展開される。関心もたれる方々は投稿子以前ブログ「レヴィストロースによるサルトル批判」にご訪問を。(部族民通信 サルトル批判でググり到達できる)近々には改訂ホームページ版を、当サイトに載せるから、ご期待を乞う。

訳注2(フランス語修辞法);la marxismela女性定冠詞は原文のまま。isme(主義)は必ず男性形なのでle marxismeが正しい。文法逸脱を踏まえても女性形としてlaを被せた。後続するgeologiepsychanalyse=いずれも女性形=に揃えたからで単純な誤りではない。男性名詞を女性とする用法は時折、用いられる(その逆、女性形を男性形に変換させるも可能だろうが出くわしたことはない)。それなりの効果をもたらす範囲で許される(らしい)。女性が男友達に「Ma petite, t’ as une bonne figure.かわい子ちゃん、格好良いね」と呼びかける。男性を女性(ma petite)としたのは「かわい子ちゃん」には女性の含意が濃厚なので、後続のune bonne figure女性形に整合させた。こうした使い方に限り許される(文法則本Le bon usageより)。単純誤りでない証左となる句が後に現れる。

引用しないが続く文章でlale marxismeにおいては「現実」対「真実」の対峙関係を「sensible感性対rationnel理性」と言い換えている。すると対峙式は;

 

経験できる事象、感性(現実)対 経験できない弁証法なる理性(真実)

 

この構造は弁証法の教条であり、歴史の真実であるとla(ママ) marxismeが主張するのだがレヴィストロースにしては、

une sorte de super-rationalisme, visant a intgrer le premier au second sans rien sacrifier de ses proprieties>

訳;これは一種の“超理性主義”であり、現実を、その性状(proprietes)にいかなる変質をも認めず、真実に合体させる(絡繰りである)。

そもそも持つ性状、あるいは属性を一切の変質なしで、感性と理性とを合体させる。しかし上記にあるとおり、どうやって異質な2を融合させるのか。ここに問題が潜むとレヴィストロースは指摘する(le passage entre deux ordres est discontinu =2の秩序は分断されるべきだ。すなわち一旦断ち切って、属性変質を施して後に融合すべきだ!61頁)。

「同格」で感性と理性を対峙させる式をレヴィストロース(構造主義)は認めない。

ここで対峙関係をレヴィストロースが主唱する構造主義と比較しよう。それは;見える形 対 思想である(本書169頁の記述による)。これを原初の式と合わせると

 

forme d’existance(現実)対 思想ideologie(真実)

 

となる。さらに両者は(心理分析、弁証法などと異なり)対峙はするも混交しない(属性が違うのだから)。別の次元として語られる、この関係が相互性(reciprocite)である。対峙する相互性、これを構造主義とする。

 

例として;

Les structures elementaires de la parente親族の基本構造(レヴィストロースの著作第一作1947年)に説明される交差いとこ婚を例にあげる。

イトコ婚の現実。ある男がいとこと結婚した、これは小さな出来事にとどまる。いとこと結婚しない男もいるし、結婚したくても見つけられない場合も先住民社会で数多く報告される。現実におけるいとこ婚の性状proprietesは、娶るは一人の女、婿は婚家への供出義務(prestation=先住民では主として食い物)に忙しい。こうした事情はいとこ婚に限らず見られる。両性の家族どうしの同盟の結成が婚姻である。

目に見える事実として、いとこ婚姻の個別の例は経験できる。

一方、いとこ婚の「思想」は「(部族)社会体制の維持、女の交換を富の環流に移し替える仕組み」である。個別の出来事である性状を制度の維持、富の交流のためとしている。思想の側で、それらを社会機能に変身させている。
いとこ婚の解説は  をクリック

しかし、マルクス的弁証法、心理分析での事実と真実にはこうした性状の変質がない、すなわち分断がない。属性として異なる物(現実)と思想(真実)どうしの邪教的混交であるとレヴィストロースが指摘する(彼は邪教も混交なる語も使っていない、小筆勝手な解釈)。

 

現象論を取り上げる。

La phenomenologie me heurtait, dans la mesure ou elle postule une continuite entre le vecu et le reel. D’accord pour recconaitre que celui-ci enveloppe et explique celui-la, j’avais appris de mes trois maitresses que le passage entre les deux ordres est discontinue:

訳;私は現象論に取り組んだ。なぜならそれが体験される世界と実際=真実(reel)のそれとの連続性を紐解くからである。私として認めるのは、真実世界が体験される世界を囲んでいて、さらにそれを説明する仕組みである。しかるに、私は3の女主人(maitresses)を通して2の秩序(世界)に渡し道があるならば、交流は(連続ではなく)分断されている筈と気付いていた。

 

訳注;女主人(maitresses)とは男主人(maitre)の女性形。例えば主人のいない館を執り仕切る女主人。一方で、男主人の女性形ではないmaitresseの用法があって、とても愛されている若い(可愛い)女、(男は何でも許すから)威張っている、ひいては恋人を牛耳っている(実は中年の威張り女も含める)女の意味。発展して口煩い女、さらには妾メカケに敷延している。始めから女性形のmaitresseには尊敬の含意は希薄である(以上はrobertから)。さて、水と同じく女の含意は高みから低きに流れる。

口煩い3の中年女とは誰か。前文で女性(形)探すと、2人は(psychalyse geologie)見つかる。さらなる一人は女性に「性転換」したla marxismeが出てきた。文法を逸脱させて3人の煩い中年女を控えさせていた。

レヴィストロースが哲学者の純粋形であれば、一人の主人と二人の女主人un maître et deux maitressesとするだろう。長くなるうえmaitreは尊敬の意を含むからmarxismeに当てるに躊躇して、一からげに中年女と束ねて、口うるささの無定見さ強調した。この性転換にレヴィストロースの修辞が隠される。

前述、レヴィストロースが上記3人の女から学んだとするが、彼女らはこの「分断」を実行などしていない。彼女らのいかさまぶりを反面教師として学んだと解釈する。マルクスを性転換に仕掛け、maitresseをあえて取り上げた卑語の使い回しに納得がいった。

(レヴィストロースは対敵を批判するに容赦はない、もっともこれが西欧の論争であります)

 

現象論、Merleau-Pontyの説く論とする。

万象の秩序には体験されるvecuと真実のreelがある。vecuPontyが主張するところの場「milieu,あるいは champ」であり、知覚perceptionにより感知される。場とは見える聞こえるとおり、そのままの世界。そしてreel真実がその情景の本質となります。

レヴィストロースが言うには「vecu体験世界、現実」と「reel世界、真実」は連続してはならない。しかるに現象論では見える物が、(分断せずに、属性の変化もなしに)真実、本質を説明している。ならば、vecureelの交流は、「分断」を通すのだと、こう規定するレヴィストロースの主張と正反対ではないか。レヴィストロースとポンティは盟友だったと聞くのだが、友を裏切るの?

 

彼は以下を論じます。

pour atteindre le reel il faut d’abord repudier le vecu, quitte a le reintegrer par la suite dans une synthese objective depouillee de tout sentimentalite>(61頁)

訳; 真実reelに行き着くにはまず現実世界を退け、続いてあらゆる感覚(sentimentalite)をはぎ取った「synthese objective客観的統合」の手法で現実を再構築する。なにやらか分からないsynthese objective客観的統合を持ち出した。これを一応、受け入れる。小筆の選択はそれしかないから。すると対峙は以下となります。

 

体験するvecu(現実)対 体験を超えたreel(真実)

 

あらゆる感覚を排除した「synthese objective客観的統合」を経ることで交流が可能であるとならしめた(これで現象論が一つのシステムに浮かばれる)

レヴィストロースはポンティの現象論に賛同し、サルトル(実存主義)を否定する。

 

現象論がsynthese objective客観的統合である分析を試みよう。

ポンティが伝えるmilieu場とはあらゆる信号が混じり合う混濁の世界です。横溢する光、色、形の(体験している)外景から真実信号のみを抜き取り、サントヴィクトワールをキャンバスに描き、その山容こそ神が創造した真実reelだとしたセザンヌを例にあげている。音の入り交じりの混濁からオペラを作曲したモーツアルト、言葉の氾濫から詩を綴ったランボーを取り上げ、神が創造した真の姿を求める人(芸術家)の創造としている(Pontyの著書から。なおPontyは混濁、混沌なる語を用いていません。この世は神が創造しているので混乱など見せるわけがない。あるがままを状景と理解すればよろし)。

 知覚(perception)を通して、vecuの場から意味をなす信号を取り出してreel世界に仕上げる。レヴィストロースが指摘した「客観的統合」はポンティの主張する知覚perceptionであった。デカルトがコギト(神から授かった智)で本質を解析した手順に知覚を導入した。 現象論の小筆なり解釈はを参照あれ。

しかるにレヴィストロースは無神者です;

デカルトのコギト、ポンティの知覚perceptionには賛同できず、<客観的統合>の理論拠り所にカントの先験transcendantalを導入した(本人は自己を近代人としてカント主義者であると規定している)。先験は「人」が獲得した能力であるとカントは主唱している。レヴィストロースをカントに結びつける無神論の仕掛けが匂うけれど、哲学の門外漢はここまでとする。

 

Quant au mouvement de pensee qui allait s’epanouir dans  l’existentialisme, il me semblait etre le contraire d’une reflexion legitime en raison de la complaisance qu’ile manifeste envers les illusions de la subjectivite.Cette promotion des preocupation personnelles a la dignite de problemes philosophiques risque trop d’adoutir a une sorte de metaphysique pour midinette, excusable au titre de procede didactique, mais fort dangerouse.... (後略、61頁)

訳;思想の動きについて語れば、一時、実存主義にそれらが花開いていた感があった。それは感覚という主観性に重きを置き、そちらにへつらい過ぎている。この方向は正統的な反省(はんしょう)とは反対を向いている。個人の偏見を哲学の諸問題の解決に当てようとすることは、演繹法をお題目にしているだけで、「お針子midinetteの形而上学」に陥る危険をはらむ....

一文で続くが長いので後の文は略したが内容は;

もしそんな進め方を野放しにしいたら、真の科学がその進め方に代替するまで待たねばならない。科学とは存在と科学自身の間柄を考えるもので、思考と個人の間柄を考えるのでないから。

語られる<l’existentialisme>をサルトルの実存主義とする。

その教義は「存在は人に先立つ。人は存在を経験し、思考を育成する(=自由を求める)。主張の根幹をなすは(人として) 経験を経て思考を得る」であるが、これをレヴィストロースが反論している。思考は「個人の体験」の副産物であってはならないと。なぜだろうか、思考とは個人を超えるものなのか。

答えは前引用の<a la dignite de problemes philosophiques>にあります。

哲学の正統な手法(dignite)は思考の根源(problemes philosophiques)を探るところから始まる。デカルトはそれをコギトと教え、現象論は知覚(perception)が本質に迫ると語り、二論は神に思考(知覚)の根源を置いた。レヴィストロースはカントによりどころを求めた。そこには個人こえる「智」にすがるところがあります。しかしサルトルは「個人の経験」を智の根源とし、故に思考は存在を越せないと述べた。これが「お針子形而上学」であるとレヴィストロースが批判した。

 

「悲しき熱帯」の出版は1956年。同書は洛陽パリの紙価を高めるけれど、この時期、実存主義はパリ論断で花盛りの様相を見せていた。「真の科学」たる構造主義はパリあたり人口に膾炙していなかった。そして5年の経過、1961年に野生の思考(La pensee sauvage)を発表。レヴィストロースは最終章にマルクス弁証法、実存主義(サルトル)批判を展開した。筆法の鋭さ(と言うか、換喩、隠喩など修辞の重なりで読むのが難しい)からサルトルの反論はなかった(サルトルがその文を理解できなかったとの意味ではない、レヴィストロース以上に修辞の星くずを散りばめる文体華麗を構築できなかった、と小筆は思う)。非科学なる実存主義が構造主義に圧倒された。

 

西洋哲学の根本は存在と思考。あるいは物体と本質、この対立を起点にして、悲しき熱帯(tristestropiques)の哲学的記述(同書61頁)を読んだ。

構造主義を基軸とすればマルクス弁証法、心理分析はキワモノを超えず、実存主義は思考と本質のあり方を勘違いした、現象論のvecureelのみ客観的総合、これはカントの先験性につながる、かく小筆が理解した。(了)