PhillipeCharlier。その著MedecindesMorts=死体が語る歴史=で、ソレルは慢性の回虫症に悩まされていた。死因は水銀の「突然の多量投与」をあばくと同時に、旅程最終の夜に「仕組まれたかに」死んだ事実も明らかにした。
フーケが眼に出来なかったその目とは、ミイラ化した頭蓋をのぞき込んで対面した大きなアニエスソレルの目玉だった(死体が語る歴史から)。

シャルル7世、ソレルとの死に別れが1450年2月、ノルマンディの解放(1450年秋)の勢いを駆って100年戦争を勝利をもって終結させた(1453年)。ジャンヌダルクを救出しなかった(身代金を払わなかった)で本国の人気はいまいちと聞く。しかし払っていたら、形勢が逆転し100年戦争がくすぶり続けたかも知れない。



ジャン・フーケ。シャルル7世の宮廷画家。

 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年2月29日
 
ボロロ族酋長 
悲しき熱帯より
       部族民通信  ホームページに  
サイト主宰
蕃神(ハカミ)義男
   死の母子像 アニエス・ソレル 下 (読み物) 2020年2月29日投稿
  上に戻る
 
   

アニエスの墓はその後、ノートルダム教会側がアニエスは王族でない、教会の内陣に石棺を置く身分には価しないと言い出しサン・トウルス参事会教会に改装された(石棺を移送)。大革命で石棺は破壊された。骨壺(入れるのはお骨ではない、公開を終えた防腐処置されている遺骸を折りたたみ重ね入れる。骨壺、3重の木棺、石棺、アラバスターの横臥像(死姿)を装飾に置く)はロシュ王館の墓所に埋葬された(地中に埋めた)。2004年に、改修を受けていた石棺、横臥像が骨壺と共に本来の居場所の参事会教会に安置される事となった。

王館墓所から掘り上げられた骨壺は開封され、シャルリエらが調査した。

その状況を同書「死体が語る歴史」から引用する。

「壺の中には白い破片層の上に一つの頭蓋骨が置かれていた。沈着物に被われた大きな眼球がこちらをじっと見つめていた。頭蓋骨とするよりもミイラになった頭そのもの」(19)

肖像画を描くフーケがそれを見るにあたわず、450年の後、墓を暴いた病理学者が覗いて見返されたアニエスの目は大きかった。他にも重要な発見があった。7ヶ月の胎児の骨格の名残(脊椎、頭蓋の断片)であった(26頁)。先の引用では「一つの頭蓋骨」とあるが、もう一つの頭蓋が断片にしても残されていた。これがアニエスがMesnil sous Jumiegeで産み落とした胎児であると疑う余地はない。胎児にはDNA検査を施さなかったから、性別は明らかにされていない。洗礼を受けずに死んだ子は「人」にならずに消えただけで、名前も性別も与えられず教会過去帳にも記録されない。

言い伝えでは女児であったとも。

しかし男児であったと小筆は解釈する。ムラン聖母子像はアニエスと死産となった子の像であり、アニエスが抱いているのは男児であるからこのように推察をした。

シャルリエ等の関心事はアニエスの死因であった。毒殺の噂が死の直後から語り継がれてきたからである。結果は;

当時も今も、多く用いられている毒薬は砒素である。検査で砒素は発見されない。しかし多量の水銀が主に下半身に付着していた。さらに多量の回虫卵が見つかった。アニエスは回虫症に悩まされていた。回虫下しに水銀(化合物)は古くから用いられてきた。アニエスにも水銀が処置されていたのだが、致死量を超える水銀を投与されたとの分析結果が出た。

シャルリエは「治療の際に用量をうっかり誤ったか、まさしく殺害されたか」として、結論を下していない。しかし明白な状況が本書に記載されている;

アニエスが回虫症で水銀投与を受けていたのは、以前からである。

ロシュを出てジュミエージェに向かった旅には何某かの政治が絡んでいた。「シャルル7世の毒殺謀議が進んでいるを直接伝える」は当時の言い伝えであり、厳冬の旅程を組んだ背景はそれを窺わせる。しかし、出立してまもなく、旅程の間中、不調、頻繁な下痢(本文では腹下しとある)に悩まされた。そしてメニルスージュミエージェ(Mesnil sous Jumiege、ジュミエージェの下の街メニル)に辿り着いて、シャルルに明日に会えるその晩に早産しの、下半身からの吐出で死亡した。

この状況を勘ぐれば、ロシュ王館では体調は悪くはなかった。シャルルに重要事を告げると出立した途端、腹下しに見舞われ、最後の夜に大量の水銀を投与されて死んだとなる。

王主治医ポワトバンが同行していた。彼が回虫下しを処方しただろう。どの程度の量を越したら、人体に悪さする程度の初歩知識は十分に体得していたと決まっている。王主治医だから当時、最高の医師であるはずだ。すると彼、あるいは彼に影響力を及ぼす誰かがアニエスをシャルルに会わせたくないとの意志を固め、毒殺を実行したのだろう。

シャルリエは断定を嫌う、しかし間接状況は毒殺を語っている。

母子像に戻る。冒頭に6の不可解点を小筆は記した。

全体を覆う陰気、肌の青さ、左胸のはだけ、腰のあり得ない細さ、母子に一体感が見えないこれらの疑念は、死したアニエスと胎児の肖像画とすれば、全てが解決する。

フーケがそれを見た。後に(5年の経過)、シュバリエから依頼を受け、絵筆を取るも最後の印象とは防腐処置を受けた死骸であるから、その様を忠実に絵にした。その当時、絵画の主題は固定されていた。母と子を描くとは聖母子でしかあり得ないから、アニエス母子を聖母子らしく天使に囲ませた。天使の表情は不機嫌そのものである。

以上がムラン聖母子の部族民解釈である。

疑念は残る。

シャルル7世の財務官であるエチエンヌ・シュバリエが何故フーケに母子像を依頼したかである。シュバリエがアニエスに対する複雑感情を負うからか。その感情は前向きとは感じにくい、すると負い目なのか。シュバリエも毒殺に一役、絡んでいたのか。対の絵(上に掲載)にある彼の祈り姿の脇に立つステファノ(フランス語ではエチエンヌ)。これは依頼主が誰かを明かす仕掛けだとするが、ステファノ描写で立ち姿がすばらしく、表情の「やるげなし」が見事に見えているから、名前明かしにしては手がこみすぎている。

彼が手に持つ石の塊が謎を明かす。シュバリエは石打刑に価すると石が伝えている。この祭壇画は絵に仕立てたシュバリエの懺悔か。

しかしこれを結論すると妄想の重なりとなってしまう。「懺悔肖像画」は一つの可能性として、ムラン聖母子祭壇画を「死したアニエス母子」のみとする。了

上に戻る

 
    ページトップに戻る