そもそも聖母子像は人に安らぎを与えるものだ。仕草、目つきにその雰囲気が表れる。上は典型的、かつもっとも有名なラファエロの聖母子。もう一人の子(右)は洗礼者ヨハネ。3人合わせての一体感が漂う。

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ムランの聖母子像と呼ばれる。シャルル7世の寵愛を受けたアニエス・ソレル母子をジャン・フーケが、母子の死(1450年)後、1456年に描いた。
小筆はこの作品を見て「マニエリスム」絵画と早とちりした。作者フーケを調べると早期ルネッサンス、ラファエロ、ダビンチに先駆けている。ならばより典雅であるべき。
その違和を踏み台にし、本投稿を練った。
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年2月29日
 
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   死の母子像 アニエス・ソレル 上 (読み物) 2020年2月29日投稿
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前の投稿{肖像画が描く光と影準備で肖像画をいろいろと見比べていた。取り上げたのは頼朝像、泉石像、モナリザに落ち着いたが、とある一幅の泰西肖像画に引っかかりを感じた。それをわだかまりとすると、別個に取り上げようとして本投稿にはいる。
なお本文は小筆の勘違い、妄想の塊と笑って読んでくれたらありがたい。

ムランの聖母子と呼ばれる絵画はフランス王シャルル7世(1403~1461年)の愛妾アニエス・ソレル(Agnes Sorel,1422~1450年)の肖像とされる。しかしこの画が「生きる人の」肖像であること、さらに言い伝えでは聖母子像と呼ばれているけれど、画風に母子像の規格をはみ出している分、幾つかの疑問を抱いてしまう;

1        画像全体に広がる陰気さ、後背はキリストの誕生を祝福する天使達ながら、そこにはいささかも喜び、うれしさの雰囲気が感じられない。他の聖母子像では天使画取り囲み、時には神が上方に出現して「乙女なるお前が身ごもり産んだ子は救世主なるぞ」と教えるのだが、この画の天使は誰もが押し黙ったまま、不機嫌な視線を空に向ける。

2        聖母なるアニエスの風情が異様である。肌は白さを越して青く、皺の一筋も見せていない。むき出しの片の乳房ははち切れんばかりに膨らむ。他の母子像でもこうした構図は見られるが、それは母が子に授乳している状景に限られる。そして彼女がこれ見よがしに乳を露出している。

3        胴回りは異常に細い、これでは内臓の諸器官を収容できない。眼差しは下に向くが、我が子に視線を落としているとは見えない。眼を閉じていると感じる。

4        母子に一体感が見えない。母が眼を閉ざし、子は母を見上げずになにやら前方に、しっかと視線を投げる。幼い子が持つ無垢の眼差しとはほど遠い。さらに彼は直の背筋で座るけれど、その姿勢は幼子らしからぬ。座す上は母の膝ではない、何やらを台にしているとも見えない。布の折り重ねに乗るが、それを支える母の手に子の重さを支える力は見えない。母子の視線にも心の置き様にも中心軸、すなわち母子感情の交流がない。

5        聖母子は西洋絵画での主要な主題で、地域を越え時代に引き継がれ著名作家は作品を残すが、必ず母子の一体感を強調させている。この一体感こそが主題なのである。しかしこの母子像はあえてその主題から逃げている。

6        子を支える布は無地である。これが亜麻布であれば小筆の推測がより当てはまるのだが、毛織物かも知れない(ネット解像力では不明)。中世を通して赤服は非常に高価で、その色を纏うことが高貴、聖を表していた。故に他の肖像画では聖母は赤布、あるいは同じく高価な青服を纏う。しかしこの聖母(アニエス)の装束は赤(西洋茜)に染められていない。赤の色が一般に用いられるのは新大陸の発見以降。サボテンから採取されるコチニールで赤色染料は一気に安価になった(16世紀半ば以降)。

上記の疑念の回答に、とりあえずの暫定として、この画は聖母子のスタイルを踏襲するが画家ジャン・フーケ(1420~1481年)は聖母子として完成させなかったのだ、としよう。

彼はこの画に何を残そうとしたのか。これからが妄想にはいる;

死骸である。アニエスの遺言執行者の一人エチエンヌ・シュバリエ(Etienne Chevalier,シャルル7世の財務官1410~1474年)がフーケにソレル肖像を依頼した。フーケがアニエス・ソレルをつぶさに眼にしたのは5年の前、それが死骸で、当然、彼女を見た最後であった。その様を母子像にした。泰西画で母子像とは聖母子に他ならないから、彼も伝統に倣って聖母子に仕上げたが、形式だけを画にした。画家の精神は対象の真実を伝えるに他ならないから、死骸とその様、さらには死因を憶測させるまでを画面に残したである。

 

アニエスの行動を追うと、14502月初、

国王(シャルル7世)暗殺計画を知ったアニエスは、居城のロッシュ(LochesIndres et Loire県、Toursの約47キロ南西とある)を出て、シャルルが滞在しているジュミエージェJumiegeNormandieSeine Maritime県)に向かった。出立は2月早々、厳冬の旅程は厳しさを増すが、アニエスが雪解けを待てない事情は切迫さの増す仏英百年戦争の動静があったから。シャルルが同地に滞留していた目的はイングランド軍の集結地であるノルマンディを攻略するためである。冬期に戦闘は始まらないから春までの籠城、雪解けを待つ間の行軍準備であった。(シャルルはその後、50年秋までにノルマンディを平定し1453年百年戦争終結の足がかりを作った)

暗殺者は当然、春の行軍前に暗殺を実行するだろう、アニエスが今すぐに出立しなければ間に合わない。両処の距離はネット地図で目計算すると150キロ+となろうか。ほぼ10日をかけて、29日に Mesnil sous Jumiegeに辿り着いた。その名(Jumiegeの下の町Mesnil)通り、シャルルの居城に唇歯の距離。しかしここでコト切れた。

死体が語る歴史(シャルリエ著、河出書房新社刊)からアニエス死の状況を見ると、

「疲れ果てたアニエスは赤ん坊を産み落とすが、子はまもなく死んでしまった(名前が歴史に記されないとは洗礼を受けなかった。これが死産もしくは分娩後すぐに死んだとの根拠。性別も知られない=小筆注)。程なくして「腹下し」に見舞われたつまり肛門、あるいはヴァギナから物質が流れ出たのである。赤痢だったか、産褥熱だったか。毒を盛られたに違いないとの噂が流れた。死が近いと悟りアニエスは遺言執行者を指名した」

(同書14頁)

3人の有力者が執行者に指名された。その一人がエチエンヌ・シュバリエ、後に(1455年)アニエスと己の肖像画を二曲隻の祭壇絵としてフーケに依頼した人物である。

さて、話は現代。シャルリエはアニエスのミイラ化した死体を取り出し、分析し死因を特定した。その経緯とは;

遺体はJumiegeの館でアニエスを待つシャルルに届けられた。シャルルはアニエスの心臓を切り抜くよう命じた、すなわちここで左胸がはだけたのである。遺体には王族、貴顕が受ける防腐術が施された。シャルリエはその手順を、記録に残るベリー公の埋葬から引用する。「心臓を取り出し、次に内臓を抜き取った。閣下のお体を空にした。内臓は直ちに墓地に埋葬された。腹腔には空豆に粉、オリバン、ミルラ、乳香を詰めた」防腐と異臭防止の薬石がおおよそ20ほど語られる。アニエスもそれに劣らない処置を受けたはず、腹腔は空にされたであろう。妊婦の腹が一気に細くなった。

貴顕の遺骸に防腐処置する目的は展示である。ベリー公の場合はパリからブールジュまで6日間をかけている。先々で遺骸は公開された(1415年)。これが当時の風習だとされる。

アニエスの遺骸はジュミエージェから、旅程は行きと同様910日をかけロシュに戻った。ロシュ・ノートルダム教会の内陣に埋葬された。
(教会内陣には多く、王族貴族の石棺が納められる。儀典を伴う葬儀を=
ensevelir=とし、その邦訳は埋葬とするが、この場合には地中に埋めるのではない。石棺は陣内に置く。ナポレオンの石棺も廃兵院アンバリッドの陣内にある。小筆注)

宿泊の度に「展示」される。シャルリエは「頭のみ」を曝す場合もあるとするが、原則は全身を公開する。ギロチンで落とされたルイ16世の首を執行者が公衆に展示する図を見るが、曝したからと言って辱めを目的としていない。王族貴顕の死は公開される習わしがあった。

アニエスの左胸ははだけたまま、(3人の娘に続き)4人目が産まれた証として死産の子を横に置いたミイラが宿泊する先々で展示された。領主、騎士、多くの市民が目視したろうが、その一人にフーケがいた。

彼はシャルル7世の肖像画を残す宮廷付き絵師であるから、アニエスの遺体を間近に、例えばシャルルが心臓を望んだから左胸が開かされた、あるいは腹腔を空にして防腐薬を詰め込んだ、生きる人にはあり得ない細腰のアニエスを目にしていると推察する。そして脇にはアニエスの証でもある死産の子が置かれていただろう。続く

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