近親者を殺されても犯人を赦す、この事例はアーミッシュ(アメリカで入植当時の風習を守る村落民)でも報告されている。犯人は少女5人を殺害して自殺。遺族は「犯人を赦す」と表明した。
赦免のこの気構え、どうやっても日本人は持てない。信条と信仰に心のあり方が形成されているかと思うのだが。

蕃神
息子を刺し殺した犯人を平手打ちして絞首刑を止めた被害者の母、殺人者の罪を赦した。

(写真はネットから)
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年1月15日
 
ボロロ族酋長 
悲しき熱帯より
       部族民通信  ホームページに  
サイト主宰
蕃神(ハカミ)義男
   死刑について考えた 読み切り (読み物) 2020年1月31日  
   

森まさこ法務大臣は「死刑を廃止することは適当ではない」との考えを示した。容認に至った理由には「やむを得ない」と回答する人が80.8%を占め、「廃止すべき」9.0%を大幅に上回った事実を上げている(内閣府調査、2020124日、サンケイ新聞ネットから)。無回答の9%は事実上の容認なので、国民90%が死刑の存続を求めている。

この話題をとりあげるに「何故それほど高い比率」で死刑制度の存続を認めるかを考えたい。

AかBか、こうした論評を広げるには己の立場を明確にする要がある。私自身は90%の中に組み入るを潔く認める。故に論理の組み立てが、死刑を容認する方向の潜在意識に、論じる前から影響を受けている、かも知れない。
政治を前面に出し結論ありき、初めからの特定集団もあると聞く。国際人権団体の参加団、県の弁護士会などがそれに当たるだろうか。彼らはいつも、強固な反対を展開しているが、小筆はそうした、結論ありきの立場にはない。
普通の日本人が法務大臣声明を受け止め考えてみただけである。

両者の主張には埋まるミゾがない。

罪の在りかと罰の下しの様が彼我で逆転しているためである。

我は日本、彼とは死刑制度反対を声高に表明している国際機関である。彼らの宗教、信条の基盤はユダヤ・キリスト教、広く取れば一神教の歴史文化を背景にしている。面々をつぶさに見れば、それをと決めつけても誤りではない。昨年末の執行(1226日)の直後、フランス(耶蘇教の教義が信条に根ざしている)駐日大使(ローラン・ピック氏)は「不公平、非人道かつ抑止効果がない」を理由に日本を非難した。(フランスからの死刑執行反対の声明は、その度、即座に自動的に配達されるを慣習としている)耶蘇であるからなのか。

大使が取り上げた3の理由については国内、一般の方からの反論が強い(ネットで読む)。

「公平を期すなら残虐を恣にした殺人者に死刑を」(昨年末に執行された犯人中国人留学生は一家4人を肉剥ぎ、幼女撲擲など陵遅手口で殺人)「非人道は犯人の仕業で、死刑が見合う懲罰」「死刑のフランスの殺人率は日本を遙かに凌ぐ」に批判の反論が集約される。

この論争は決して埋まらない。

相手側を納得させる倫理をいずれ側も持たない。突き詰めようとも倫理も論理をも手段としようと、それを越えた精神の底で異なっているのだ。対話しても論争を重ねても、埋まらない異質、乖離を見つけてしまうだけだ。死を国家が実行するしない、死刑を押し進めるか止めるかの意志は、国をなる体制を遙かに越える「国民の信条」に収斂される。

そこに彼我では交じらない。重ならない融和しない異質が強く存在する。

前述とおりに「罪と罰」の認識が彼我で逆転しているのだ。論じるのはこの点だ;

西洋の意識形成にはギリシャの思考、ユダヤ・キリスト教の教条が大きく影響を及ぼした。小筆の意見ではない、学識の多くが伝えているからここは事実であろう。彼の地に育まれた思想信条で「罪」そして「悪」は何処に漂うのか。外界である。

人はそもそも純真無垢であると彼等は信じる。

ミロのヴィーナス、サマトラケのニケなど彫刻を見て、ギリシャ人がいかに人の生きる姿を礼賛していたかを知る。生きる様こそ無垢で「正」と信じていた証である。悪はプシュケが箱を開いて外界に蔓延したのだ、と神話が教える。

 

ユダヤは裸体を生きる姿としては認めないなど、おおらかさに欠けるけれど、人のそもそもの根性は無垢であるとしている。アダムがリンゴを囓った横に悪魔が嘲り嗤う。楽園追放の罰を受けたアダムに罪はない、悪魔がそそのかしたのだ。イスカリオテのユダは悪魔が差し出した金に目がくらんでイエスを売った。罪を犯すとは外部に跋扈している悪の誘いを防ぎきれなかったためだ。誘惑に弱いは人の常なので人を責めまい、罪の源は悪の外界にあるのだから。
罪の由来は外部の悪で悪魔はその筆頭で悪さをそそのかす。故に人の罪は神が裁く。

 

キリスト教は教義の根底に「最後の審判」をおいた。

死に該当する罪としても、罪人が教徒である限り死刑は執行できない。罪人も神の子であるから。封建の世、領主は法を犯した領民を死をもって罰しない。悪行は無断の伐採、猪、鹿の密猟。この程度の罪でも土牢に拘禁。土牢とは城とする領主館の地下に必ず据え付けられる。窓無し石囲いの牢屋にとりあえず閉じこめられる。とりあえずとは生きる限りで、罪人を閉じこめていた。なお土牢の劣悪環境で人はすぐに死ぬ。死んでしまった罪状の善悪裁断は神にまかせる。

ヨーロッパではかく終身刑に重きを置き、死刑など一切、実行していないと言い張れる。しかし敵が一歩、キリスト教から踏みはずれたら、堂々と死刑を実行していた。終身刑と裏腹の黒い歴史も彼らは持つ。
(中世ヨーロッパでは日常に、死刑が執行されていた。罪状には偽金造りが多い。こうした死刑と宗教(ユダヤ教=金融にはユダヤ人が携わっていた)の関連を曝く書物は、今のところ無い 2020年1月加筆)

異教徒には死刑。

火刑が実行される。カタリ派(三位一体を認めない13世紀フランス南部での弾圧)、異端(ユダヤ教からの改宗者、15~18世紀スペイン)、魔女(密告、財産の公的窃盗)、地動説主唱者に耶蘇は迷わず火刑で報復した(ブルーノ1600年)。

サルトルの言い回し、l’enfer c’est les autres「悪は他者」(戯曲「出口無し」の台詞)人は外界の悪の犠牲となる、ヨーロッパの心底にくすぶる異端には土牢、火刑で罰せられる民の不安をこの語が表している。

レヴィストロースは正反l’enfer c’est nous-meme「悪は自分」なる文句を生み出した。人は悪を内に持つ。自己の心の奥底に潜むは悪、その横溢。それを防げない者が罪を犯すとの絡繰りである。西洋を離れて他の部族、特に南米先住民は「悪は我」と信じている。レヴィストロースがこう主張したのだ。小筆はこれを日本に当てた。

遠くはイザナギイザナミから、内に潜まる悪を神道が教えている。
イザナミの死体はモガリ穴の奥で腐乱していた。主の死により内の毒気が恣にその身をむしばむ。死んでもなお懸想を妄想したイザナギも、己の悪を抑えきれなかった人だった。モガリ穴に潜って人の身の内、その悪を見てしまった。黄泉からの帰りイザナギが、身の穢れ祓いを初めて試みた。神道儀礼の縁起である。

日本では罪悪は、己の内の悪を制御できなかったためと考えられている。悪を押さえ込むには日頃の良き行い、潔斎、修行を重ねるしかない。神主にお祓いを受ける儀礼も有効である。それでも罪悪を犯し、死刑に価するとなったら;

己の命で罪を拭う、自己責任論からの死刑肯定である。

光市、母子殺人の犯人は反抗時で18歳であった。3人を越す殺害では未成年でも死刑の実例がある。2人なら無期懲役の判決となるのか、弁護士を含めおおかたが極刑は予想していなかった。被害者の夫であり被害幼女の父は、残虐な殺し方にはたとえ未成年であっても死刑をと社会運動を引き上げた。最高裁判決は死刑が下された。

イラン、母親による死刑の免罪。

刑の執行は被害者近親の同意を必要とする(イランの慣習法)。執行の直前、被害者少年の母は殺害者を許した。死刑は執行されなかった(2014年イラン北部ウシャハル)。

両者の行動を比べ、いずれが正か邪かを論じるは無意味である。執行に「民の倫理」が反映されているかを確かめる公平な視点から論ずべきである。そして民の倫理を見比べて一方は他方より「人道的」などとうそぶくことはより無意味である。




罪と罰、穢れと祓いに関しては過去に投稿している

地獄は身のうち(1,2,3)2019年7月 

クリック死刑の肯定否定のマトリクスが2頁にある

 

 

 

 

 

 

 

 
    ページトップに戻る