モノ世界を敷衍し世界観を形成するには裁断と統合の概念(concept)を持たねばなりません。未開人とされる人々も文明人も、等しくその知恵を具有しています。
とある自然(ネットから)滝、滝壺、崖、草、木までは分離できるけれど、現場におもむいて草を種別に分けられるだろうか。Tlingit族よりも抽象能力が低いだろう。
Tlingit族はカナダ北西部、アラスカに隣接する地に居住していた。自然を裁断する(decoupage)にあたり毒草を緻密に裁断し、他は大まかに雑草としか呼ばなかった。
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年6月30日
 
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野生の思考 LaPenseeSauvage を読む
 3 (人類学)2020年6月30日
 
 
言語と抽象能力
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彼らは植物、動物といった広範な抽象語を持たない。植物の中では(薬草)あるいは毒草などといった生活に用いる種のみに名を与えている。故に先住民の抽象力は範囲の狭い語に限られ、限界を見せるーこうした展開を引き出していると小筆が解釈した。

「貧しさ」なる概念が「植物」のそれに較べて狭いとの指摘(Boas)の正否には小筆は判断できない。おそらく当時(20世紀初頭)の生物分類の図式(界、門、綱と大から小へとつながる分類)にBoasは影響を受けたかと思われる。構造主義的意味論(前回623日投稿のパワーポイント図)に立ち戻れば、それら語はいずれも思想をなす、それなら「質」の範囲であるから、狭いなり広いを議論しても意味が探れない。

本文に戻ると;

Je me souviens de l’hilarite provoquee chez mes amis des Marquises...12頁)<今でも思い出すがマルケサス諸島人々の大嗤い<

なぜ報告者(Handy)が嗤われたかというと「雑草mauvaise herbes」の名を尋ねたから。レヴィストロースが毒草でない(役に立たない)草の名を尋ねた時の南米のNambikwara 族の大笑いと同じ反応が大洋孤島の住民にも起こった。(Handy1921年の報告、レヴィストロースのNambi.報告は1936年)。

しかるにこの例をして報告者達(Handy他)は先住民の抽象力の欠損と決めつけた。

ここで本投稿第一回に引用した

le decoupage conceptuel varie avec chaque langue<(本書12頁)を思い出そう。

「概念による裁断は言語によって異なる」解釈は前回通りです。野生の思考1に掲載したにて解説、ロゴをクリック、2頁目に解説が。

「言葉の概念が外的世界を裁断する、この様態が言語を理解する要となる」。西欧言語では「植物」「動物」で大きく「裁断」し、それらの小項目に杉、樺、とねりこ、楊などに細分していく。一方で、自然に密着している先住民には「植物」の大項目は不要である。

Parmi les plantes et les animaux, l’Indien ne nomme que les especes utiles ou nuisibles ;

les autre sont classees indistinctement comme oiseau, mauvaise herbe, etc.<The Tlingit Indian Kraus著、本書11頁から)訳;あらゆる植物、動物のなかからTlingit 族は有用なそして毒のある種にしか名を与えない。それら以外は無関心に「鳥」、「雑草」とだけ呼ばれる。

彼らは「植物」を項目にとらず、「毒草」「可食草」を大項目に置いて外界を切り取っている。もう一例;

Les faccultes aiguissees des indigenes leur permettaient de noter exactement les caracteres generiques de toutes les especes vivantes, terrestres et marines ainsi que les changements les plus sutils de phenomenes naturels tels que les vents...The Polinesian Family SystemHandy著、本書14頁)<

訳;原住民はそのとぎすまされた感知能力から、地上性にしても海洋のあらゆる生物の系統を言い当てられるし、いかなる些細な自然の変化、あらゆる風の動き...も言い当てる。

ここでは>toutes les<あらゆる全ての、を用いているが「生物学」的、「気象学」的な「あらゆる」とは異なり、外界の事象でも彼らが関心を寄せる「あらゆる」種、現象と理解する。ここでもdecpoupages conceptuels(概念の裁断)には族民の関心と利害が先に立つ。その上にたってのdecoupage、自然の裁断である。

これは「関心の有様」であり、先住民においては抽象能力が欠けるとの指摘は誤りである。

 

意の広さ狭さを比較するあたり「樹木」と「杉」の大小判断はあり得る。杉は樹木の一含意なので樹木がより広い意味をもつ。20世紀前半の人類学では「より広い範囲の抽象語を持つ言語はそれを持たない言語(未開人言語など)に比べ抽象性(思考力)が勝る」との論が風靡していた(このあたりは小筆は人類学専攻ではないので、本書「野生の思考」の記述内容から書き起こしている)。

13頁に;

les mots chene, hetre, bouleau , etc., ne sont pas moins « des mots abstraits que le mot arbre, et, de deux langues dont l’une possederait seulement ce dernier terme, et dont l’autre l’ignorerait tandis que’elle en aurait plusieurs dizaines ou certaines affectes aux especes , c’est la seconde , non la premiere, qui serait , de ce point de vue , la plus riche en concepts<

訳;柏、ブナ、柳、その他...これらが樹木なる抽象語(樹木)よりも小さいとは言えない。2 の言語で一方は後者(樹木)のみを持ち、他方はその語を持たないがいくつ(幾ダース、幾百)もの種の名を有するとしたら、後者が言葉の概念として豊かである。

最も豊かな言語は種を統合する概念を頂点として持ち、配下にいくつもの(幾百もの)種別の語を有する言語である。しかしそれは「学」としての分類、整理の範疇であり、族民らは(文明人も同様に)関心を寄せない範疇には「鳥」「雑草」など大まかな概念語しか与えない、前回投稿のTkingit族は好例である。こうした例、decoupageの制限された有様は民族誌に多く記載されている。

Dans les deux cas , l’univers est objet de pensee, au moins autant que moyen de satisfaire des besoins.(13)。訳;これら2の場合(具体科学と近代科学)ともに宇宙(森羅万象)は思考の対象であり、少なくとも同様に必要とするところを満たすモノだった。

ここでは具体科学も近代科学も概念の展開とでは同じ土俵に立っているとしている。これを受けて;

Chaque civilisation a tendance a surestimer l’orientation objective de sa pensee, c’est donc qu’elle n’est jamais absente. Qunad nous commettons l’erreur de croire le sauvage exclusivement gouverne par ses besoins organique ou economiques, nous ne prenons pas garde qu’il nous adresse le meme reproche, et qu’a lui son propre desir de savoir parait mieux equilibre que le notre ;()

訳;あらゆる文明は己の思考がその対象に向かう状況を過大評価する傾向を持つ。我々が「未開人」は食物獲得のための強制、あるいは経済事情にのみ執り仕切られているとの誤解をおおっぴらにするなら、彼(未開人)が我々に同じ非難を向けてきても反論できない。彼にとり、自然を知る欲望は我々が持つそれより、さらに良く均衡が取れていると、彼は感じているのだから。

続いてHandy等のハワイ先住民の民族誌(ポリネシア社会)を引用。そこには現代社会の農業形体を>exploite sens merci les produit qui pour le moment procurent un avantage financier detruisant souvent tout le reste<自然への感謝も見せず、一時のちょっとした経済利益を得るために、他の全てを破壊して幾ばくかの作物を追求しているだけだと(Hardyは)非難する。続いて;>L’uitlisation des ressources naturelles dont  disposaient les indigenes hawaiiens etait completes<ハワイ先住民の自然資源の利用は完璧であった。と結んでいる。

19世紀後半からハワイには白人(米国人)が進出し、パイナップルなどのプランテーションを展開した。経済利益を生む単作物栽培と土着農業を比較し、文明批判した一文と思う。

追:昭和期、人口に膾炙された逸話。侍従長「雑草が繁茂しております、そろそろ刈り払うつもりであります」昭和天皇「汝、雑草なる草はおらぬ。カタビラ、アレチノギク、カヤツリグサなどと全ての草は名を持つのだ」侍従長「はっはぁ~畏れいりまして」

天皇は臣下を汝とは言わない(らしい)、名前を呼ぶのだが入江氏であったかに確信は無いし、この挿話自体が創作かも知れないので汝とした。学びの人、昭和天皇ならばあり得るとして人々が語り合った。神とあられるお方の自然の裁断は(decoupage conceptuel)は臣下、庶民とは比べるべくもなく緻密であった。続く

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