毛沢東の神格化をPDFにした。画像クリックでPDFに飛ぶ。解説は次回
文革の解説する書物を幾冊か読んでも分からない点は;
海瑞罷官劇の批判から発した訳だが、それなら彭真(北京市長)とその配下を罷免すれば済む筈だ。しかし彭徳懐さらには国家主席の劉少奇までねらい打ちにした毛の力の源泉はどこにあったのかーである。
毛神話が創生されたと仮定して本投稿の骨子としたのだが、皆様の納得が得られるか。
蕃神
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年1月1日
 
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   現代の神話 毛沢東神への祈り1 (神話) 令和2年元旦2020年1月2日
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いかにして毛沢東は神となったか。 肖像としての毛沢東を幾つか選ぶ。

作品名は「偉大導師」、版画である。

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一目して毛沢東と分かる。しかし何かが「異質」である。その異質感覚の由来を探るは後にして、本作を一通り確かめよう;

立ちながら一人、書斎にて本を読む姿からは何事かを調べている真剣さがうかがい知れる。その本を選び手に取り、探し当てた紙面、行句に落とす目差しの鋭さ。肖像画には珍しい横顔なれば、左の顔半面しか描かれていないけれど、思索をたどりその道筋を深めようとの気迫がうかがい知れる。作者は張強氏。出典は「それでも私たちが日本を好きな理由、在日中国人33人」(趙海成著 CCCメディアハウス出版、写真は本書上で公開されている画像を撮影した)。

題名「それでも」の理由は、出版の2015年には反日デモ、漁船と海保の衝突などが重なり、中国内で日本排撃が高まっていた世相を反映している。日本に移り住み定着し商業や観光、文化で長らく日中交流に貢献している「それでも...」の33人の活躍を報告している。

張強氏は1986年に来日、日中往復しながら、国内で「高強」の作家名で肖像画家としての地歩を築いていると聞く。 作品は1976年の発表。しかし発表前に、とある因縁がつきまとった。上役から「毛沢東と工農兵を共に描かず、どうして古い書物に埋もれる主席を書くのか」と非難された(本書から)。工農兵は労働者、農民、解放軍兵士をまとめた慣用語で中国版のプロレタリアートである。

プロレタリアと共の主席を描かれねばならぬは中国共産党の教条である。張氏はスケッチを仕上げた段階で、上役が停止を命じ「創作する権利を剥奪された」。

 

張氏から創作権を奪った上役はおそらく共産党員であろう。「文化革命」が幕を閉じたのは197610月、革命なる騒動が終焉したか、あるいはその気配が察せられる時期にも、ステレオタイプの毛を画像芸術の至高と信じていた一団が、芸術集団において顕在であった証左である。

張氏は諦めず、(芸術の上での)師の励ましもあって作品を完成させた。
そして;

「偉大導師」は中国にあまねく知れ渡った。彼は一躍、有名になった。(141頁から)

冒頭にただし書きしたのは「異質」を感じた。上役が張氏の描く肖像画への不同意をあからさまにし、「創作権利」を剥奪までした理由が、「異質」と同じ根を持つと気付いた。前者は打破であり、後者は固執である。この画像には確執が巡り回る。そこに現れる異質さが表現と観念の落差である。併せてそれらを同根と感じたのだ。

(なぜこの上役を共産党員としたかは、中国において機構、団体などでは必ず共産党員が上席に居すわり、活動を監視している。監視者ならば党員であろうと推測した)

 

毛沢東の典型画像を3挙げる(いずれもネット採取)


1      典型的な毛像である。中央の高みに位置し笑う、人民よりも大きく書かれる、明るい色(赤、その系統の色合い)が飾る。あたかも毛から光り、暖かさが輻射しているかの錯覚をもたらす。工農兵が毛の下で拳を握りなにやら主張している。兵は中央にて片手に掲げる赤い冊子が「毛沢東語録」である。


2      ここに人民は見えない、代わりに花がかしずく。彼は笑いを四辺ふりまいている。人民はポスターの外周に取り囲み、毛のご威光を受けている、そう決まっている。省略されている理由は「当たり前」だから。毛の顔がでかい、視覚的に安堵されたでかさの分だけ本人は偉くなっている。令和日本では「ドヤ顔」戯画の範疇である、しかる文革最中の中国の街角で「人民の偉大な指導者」的な錯覚効果を、そこいらに汪溢している立派な人民芸術である。


3      取り巻く人の多さからして、また1,2で述べた機能が全て満載される点で、さらには全員が「語録」を掲げて偉大な指導者を讃えているなどからステレオタイプの中で極めつきです。

 

それにしても冒頭の張しの作風とは大きな隔たりがある。しかし、張氏の上役はこうした画を描くように強要した。

これらの画には、必ず「語録」を人民が振りかざしているから文化革命期間(1966年に始まる)である。残された動画をネットで見ると、確かに人民は毛に「熱烈歓迎」を浴びせ「雨あられ」式に語録を振り回して熱狂していた。政治のプロパガンダであるとしても、人の瞬間の表情にまでも政治意向は入り込めないから、彼ら人民の表情は確かに真剣そのものと見え、心から毛沢東を敬愛していた、としか小筆は解釈を知らない。

毛沢東に熱狂する群衆(評伝毛沢東より)

そしてこの書(それでも私たちが…33人)の張強氏の既述の半頁から、熱狂がある時に止んだと知る。書に戻る;

張氏は抵抗し、何とか完成にこぎ着けた。版画が中国の各地に広まった。そして;

 

全国美術展で入賞。あまねく知れ渡った(既述)のである。評論家(そういう職業が中国にあるかを知らないが)も人民も「非原寸大」の「笑う毛」には、実は、飽きていたとも勘ぐれる。張氏が発表したのは1976年、革命が終焉した同年となる。全国に配布されたのは1978年となるのか。革命四人組が逮捕され、憑きものが落ちたかのように人々が覚醒する。彼らは「実物大」の毛、笑うでも光りに輝くでもなく、書斎に一人立ち、何事かを考える毛に人々が引きつけられた。

鑑賞の仕方まで紅衛兵の指示うけるくびきから、突如、解かれた。これは芸術の力である。

 

さて、文化革命に戻る;

大躍進の大失敗を彭徳懐らに批判され、危うい立場に追い込まれた毛沢東は、乾坤一擲の勝負に出る。実物大の己を曝すのである。

 

写真は広く流布している。

紅衛兵は文化大革命の年、1966年に結成された。同年8月から11月にかけて、全国から1000万の兵士が北京に集合、天安門広場で毛沢東の謁見を受けた。第一回の謁見大会で100万(ママ)と居並ぶ衛兵の前、壇上で左側の毛が右の女闘士から紅衛兵の腕章を受ける写真である。この女性(宋彬彬、紅衛兵組織の立ち上げに活躍した)が毛を神の座に導いた。

画像説明で左、右をあえて強調した理由は左が「皇」の位置であるから。しかるに背後の衛兵達には毛は右となる。全国配布を目的として左の毛、背景の衛兵の画角を採ったとの解釈には間違いがない。

続く


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