部族民通信アラカルト
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カツ丼の自由はアリサの勝手でしょ1~3 再考

デカルトによれば自由はvolonte(発心)が先に立ち、心の力capacite positive(ジッドはこれをvertuとしている)がその実行を裏打ちする。「発心」と「心の力」の間に乖離、離反は多く発生するから、軋轢が生じたら逡巡が阻まれ、自由が遠ざかる。アリサのように自由で死にたいと願っても、往々にして人は(情の横行に負け)欲を抱くから低級な自由(leberte differente、意識している自由)しか実践できない。

デカルトが生きた17世紀には「個人」という概念はなく、まして人が「自由に考え自由に生きる」との思考はローマから堅く封印されていた
。逸脱者は火刑に処される耶蘇の定めも守られていた。
しかるに、あるいはそれ故にか、デカルトは自由の根源を神に求めて、神の行動(無関心)を人が倣う過程で自由を獲得できるとした。時代に生きたデカルトの怜悧さの表れかと思われます。

アリサが生きた19世紀後半とは。
個は既に確立していた。しかし個がいかに行動するかには未確立だった。信仰信心にすがるのか、個たる自身が何事かを求めるのか。

アリサは、
神にゆだねる我が身を目指し、祈りを重ねてこそ個が確立するとした。デカルトが教えた「無関心の」自由を真摯に実行せしむとした。volonte発心を祈りに求め、その答えvertuを神の救済のなかに探した。
世俗の道のり(高等師範学校から外交官に)を疑い持たず歩むジェロームとは相容れない。
ジェロームは神に破れた。

カツ丼自由を求めるK氏は何に破れたのか;

「カツ丼の自由はアリサ…1~3」の冒頭にて、昼飯にカツ丼を選択する行為こそ究極の「自由」だとK氏は決めつけていた。すると彼は、無関心の自由とはいささかの接点もなく、肉と脂の旨さを食らう官能に耽溺していただけである。欲望の追求でしかない。
彼には自由とは欲望の遂行である。己の欲に取り憑かれていただけだ。これを無関心の自由と伝えるのか。彼は食欲の奴隷でしかない。

アリサとK氏、自由を巡る解釈の、彼我を隔てるその距離はかくも修復不能のあり方で発生したのか。

きっと明治の文明開化、翻訳で「自由」を選んだ手違いか、それを「自由」(自身の由とする意味)と解釈した衆生の勘違いから発生したのか、それともそもそもliberteなる概念など日本人は感じたこともなく、今でも持たず、理解ができないためなのか。
自由と訳した諭吉はこの語「己、自の由よしとする」はLiverteに馴染まないと知りつつ選択したとも伝わる。

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