部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2019年10月15日
 ボロロ族酋長 
悲しき熱帯より
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   カツ丼の自由はアリサの勝手でしょ の前文 
 前文 1部 2部 3部
カツ丼を食らいの自由を堪能した
K氏が浮かれ気分。身勝手好き勝手を満喫したアリサとは皆様ご存じ文豪はアンドレ・ジッド、ノーベル賞作品「狭き門」(La porte etroite)の女主人公。二人ながら「自由」を求めてそれぞれの、喰い様と生き様を邁進したのだけれど、その起因を促す事由の諸々、というか自己表現の発露模様に取り付いた形式美学の混迷か、喰い地の貫きも世俗の愛のスッタモンダも結局は結実しなかった。
日野なるイナカの丘陵地、ムジナ除けなる犬と住む老人
K氏とフランスはノルマンディの旧家のご令嬢、薄幸美女の可憐さと一途の献身を比べる宿命の、その糸口を小筆は探せないけれど、本邦21世紀は令和的島国の閉塞、彼の地19世紀のその末は文明の灯火か細き黄昏と、両の事情を比べてどこでも開けてしまうパスパルトゥーみたいな魔法の尺度はないけれど、比較の鍵に自由liberteを用いれば、生きと死にの比べの様が成立するのではないか。
するとこの前文とやらは、無責任すら裸足で逃げる
ヤシンの一文だ。デカルトが説いた自由とはいわばcogitoの自由。ジッドはvertu行動の自由追求した。そして信仰と自由との狭間に近代奈落を見てしまった。K氏が落ち込んだカツ丼陥穽とは食と社会の葛藤の熱地獄だった。
この三題噺をまとめるは難しい。しかし
小筆ハカミには強い味方があったのだ。

多様な精神在りどころの位相差をレヴィストロース(Claude Levi-Strauss, 哲学者人類学者2009年没)が主唱した構造主義の手法を用いれば易々と、細部に至りチチンプイと解決してしまう。カツ丼を食らう心情のワケをアリサの純真に投影して、なおもついでに老人の内なる心のねじくれを純情オボコの潔癖ぶりと対比させ、21世紀はいかにして19世紀との離反に苦しむか。これを解明せんとするハカミ、コンシンの投稿。
(前文の了)