不満顔のチャビ


かつても
今も

ごちそう王者

グルメの垂涎の的

もう一丼のカツ丼


ジッドが
カルテジアンなる背景を考えたら
カツ丼の一文になった。

今もカツ丼は
ごちそう界に
無敗の昼飯王者として君臨している

部族民が住む多摩地域、
あちらこちら
に見かける狭い門だって、かつては
空き巣防ぎの大功労者だったのだ


蕃神



ポケット版狭き門

デカルトが自由を初めて語った

K氏が焦がれても止まないカツ丼
写真はネットから


よく見かける
「狭い門」

一例。

空き巣と肥満体者を

寄せ付けない功労門
 部族民通信ホームページ   開設 令和元年12月20日 更新
 
部族酋長さん
    
部族民通信   カツ丼の自由はアリサの勝手でしょ1(哲学) 
 
                       前文 1部 2部 3部
 
主宰・蕃神義男
  カツ丼の自由はアリサの勝手でしょ1 令和元年12月加筆投稿
 
カツ丼を食らいの自由を堪能したK氏が浮かれ気分。自分勝手を満喫したアリサとは「狭き門」(La porte etroite)の女主人公。=中略=21世紀はいかにして19世紀との乖離に苦しむか。これを解明せんとする三題噺。
(この前文は長さのワリに内容が希薄なので別頁にした。お時間許す方はカツ丼の前文をクリック))


K
氏について、

忠犬チャビ公を連れて丘陵小道やら遊歩道のブラリの途中に、陋屋に立ち寄るを常とするが、彼岸過ぎてのこのところ姿を見せなかった。それから数月、8月は連日の猛暑、それが一休みして涼しい風に気も休めた3日連休の中日は土曜日、夕刻の犬散歩の道すがら訪れた。時候の挨拶もはずして開口一番、

「働きだしたんで散歩の暇がなくなった」

視線をふと脇のチャビ公に向けると不満面。鼻面シワの刻みには普段にましての険しさから、そのワケが散歩の回数が減ったからを物語る。吠える噛みつくなど、雑犬にありがちな直情八つ当たりを堪え、不満不同意を犬なりに昇華する苦労抑えの塩梅には納得がいった。

しかしながら、

K氏は定年退職してすでに数年が経過している。初老とされる年代にして「働きグチ」が見つかるとは驚きだ。シルバーの口かな。

「今の世の中、どこにいっても人手不足。ハローワークで老人再就職の斡旋コーナーとやらに、この面を曝した瞬間に勤め口が決まった。やはり何だね、隠そうとて滲みわき出る不老の徳が儂にはあるのかのう」

徳があるとは初耳だった、たとえあってもチャビ公と同程度だろう。

人手不足とは聞いていた。求人倍数なる数字が新聞に出るが、東京では2倍を越す勢いが続いている。求職者一人に2の求人があるとの意味らしい。野党あがりの政党が政権を担った時期、職を探しように若いとて雑用の一件すら見つからなかった5年前、悪夢の思い出しか残らないが、今年はなんとこんな厳つい初老に働き口があると驚きだ。

中身を訊ねると、

「仕分けしてパソコンに入力、外出、出張など経費付き合わせと管理、ほかにも..

経理の下働き兼諸用の全般。かつては簿記上級など資格ねらいと待遇向上を計るキャリアパスの一段階、若い女子の仕事入り口だった。そうした前向き子女は引く手あまたとなっているのだろう。

「一日5時間、週4回。この歳になったら週40時間プラス残業なんて正社員の仕事はこなせない。小遣い稼ぎで十分、居間でテレビを前に寝ころんでいないだけでもカミさんに感謝されているよ」

「グーウゥーワン」

無駄話は切り上げて散歩の続きに踏み出すのだと催促している。その犬の無駄をK氏が続ける。

「困っているコトが一つだけある」
「ワンコロの散歩の回数が減った、こんな怒り面の毎日だ」
「犬ではない人だ、私が昼飯を選べない」

上司と同僚、といってもK氏よりも2世代3世代も若い。

12時の鐘が合図で皆が部屋を出る。男同士の34人、揃って雑居ビルの階段を下り、揃い出た街角はJR豊田の駅の斜め前、人の通りは何とも繁華。濁らない「トヨタ」は愛知は三河の中心、濁るこちら豊田は東京日野市の地名、駅名。
中央線のその駅近くに買い物ビルが建設されたのは幾年かの前。小筆の住まう丘斜面からは遠く離れるから人の混みの雑の程度を想像できない。

「何を食うか、男3人なら好みが3通りに分かれる。4人となったら4人目が別の希望を出すからなおまとまらない。それでも雑踏だ、早めに決めないと席が確保できない」

「暑い盛りだろう、小輩にしてソウメン一椀かザルなら一枚で決まりだ」

食い物は軽さが八月だと教えたかった。

「あんたは仕事してない、腹も減らない。こっちは通勤の混雑で消耗し、勤務開始から減りだしている。事務所の机の上には午前にまとめなくてはならねぇ書類が山盛り。整理して頭の蠅を払うやらパソコン叩くやら、仕事が山積み。 作業の規格が難しくなっている。額に汗すれば脇目も振らずに一束一貫3.6キロのデータをパソコン入力する。終わる頃にお昼のチャイム。鳴ったらとたん、腹がすっかり減ったぁ」

「グーウワン」

チャビ公再度の催促など聞かず聞こえず、気にとめず。

「歩み止めたが34人、焼きそば、天丼、親子丼、焼き魚定食なんかがいつも提案される。儂には気に入らない」

「とは」

「カツ丼なのだ。無慈悲に例外を許さずカツ丼の必然だ。天丼、親子丼はおろかウナ丼にしても願い下げ。カツ丼を食うためトンカツ屋に入らなければ気が納まらない」

老人がカツ丼になぜかくも拘泥するのか。

遠くを眺めるかK氏が目を細めた。質問に答えるために、思い出しの過去の永さを数えていたのか。しかしカツ丼ごときにこれほどのまじめ顔つきを構えるとは。

「刑事モノが流行りだった。デカは刑事、刑事は探りを入れたり捜査したり。最後に容疑者をしょっぴく

刑事モノが盛んにテレビに流れていた。

逮捕して拘置所ならぬ代用監獄(署に設営する豚箱)に拘束する、ぶち込むとも伝わる。拘留期限の10日の間に供述させねばならない。尾籠な言い回しがらゲロを吐かせるとその様を換喩に伝える。

「ホシだってすんなりと吐かない。否定し続ける。期限の10日目を明日に迎える9日目、取り調べはもうお仕舞いのその前に夕食。出る文句は決まって、

「カツ丼、食うか」

ホシは沈黙を続ける。

肩がわずかに揺れる、カツ丼の一言が悪漢の強情に改心の起伏を生じさせたのだ。

「特上ロースの大判の2段半のタワー重ねを頼んでおいた」

陪席していた見習い刑事がトドメを刺す、

「西洋楼の出前だ。他では食えないぞ」

他とは他の警察署、そっちだったらカケ蕎麦だろうよ、勿体ぶった言い切りには羨ましさすら響いた。若手の薄給では重ね段無し卵1ヶとじどんぶりの素朴が限界なのだ、

左の肩と右の腕が揺れて首と頭がばらり、垂れた。ホシが崩れた。

これが瞬間、専門用語ではゲロ引導、逃してはならじ。すかさずデカ長は机下に手を回し一丼のお盆を取り出した。「ほれ」
なんとちゃっかり注文しておいて隠していた丼。
重ねの特上ならば図体もでっかい。圧巻ドンブリ、豪華王者の威張りにドヤ風体がホシの目の前「ドッカーン」。デカ長は箸を割って容疑者の目下に蓋を開けて「喰え」押し出した。

とじる卵の濡れ乱れ、肉塊の揚げあがりパチパッチ、脂の焦げがジュック、ドンブリが湯気にフワーッ湧いた。用意は周到だった。

カツ丼湯気にまみれた目から涙が垂れて「刑事さんすべて話します」ホシの叫びの供述が始まる。取り調べ9日の責め苦も2段盛り特上カツ丼の敵ではなかった。


こちらK氏
、皆に懇願する、

「カツ丼を食う自由を保証してくれ」

気持ちは分かる。

「ワーン、ワワワーン、ワーン」

乱れ吠えるチャビに「自由追求はいかんとも厳しい」を教えK氏は立ち上がった。

自由とは仏語liberte,英語libertyの和訳である。訳者は福沢諭吉と伝わる。著作「西洋事情」に初めて出てくる(らしい)。古来から漢語「自由」は使われていて、その本来の自由に諭吉がliberteをひも付けしたとの説明を目にした(Wikipedia)。
意味するところは、

1気まま思うまま(漢文の引用が続く)2()他から拘束を受けずに自身の意志によって行動できること。この2通りを伝える(大字源)

1が明治以前から使われている自由で2(=哲学)は福沢の導入した「西洋」の自由と定義して納得がいくだろう。

ここでの留意は(勝手)気儘対(自由)意志と乖離が認められるうえ、勝手気儘である己(自)のよし(由)とするところが本来義であった。

この留意点が本稿執筆の意図である、後に説明する。

近世で用いられる「自由」としてliberte初めて語ったのはデカルト(Descartes)とされる。それ以前、liberteなる語はあったとしても、思想、行動としての定義ではなかった。の原義は<disposition a donner genereusement la charite>robert)惜しげなく愛徳を与える(神から与えられた)性向、とある。宗教に裏打ちされた行動である。

そもそも中世以前は人の思考行動のすべてが「神の意志」となるから、自発的に人が「考える自由」を行使するなどは耶蘇で御法度。信仰を持つ良き人は、神の思し召しの通りに添い振る舞う(だいたいが耶蘇坊主が代言する)。自身の考えなど持たない持てない次代であった。そしてここでの留意点2とは、宗教用語でもあった自由liberteは後の時代の意義用法とどのように異なるか、近似するのか。
前述の日本語での本来意義と訳語の意義とでは「乖離」があったが、liberteではどのようなモノかを探る事でもある。

デカルトの解釈が近世の自由の意義付けの嚆矢であるなら、デカルト著作を紐解けばよろしい。原典に直接アタックは気後れを覚える、故にネットでググる;

目星をつけたサイト名はPHILOPHORELe doute et liberte chez Descartes。主宰Eric Chevet,お偉い方と見受けるがその誰かを知らない。攻略本に用いよう。

Le doute atteste d’une « faculté positive » que Descartes nomme le libre-arbitre (ou liberté d’indifférence):

疑い(le doute)=思索はデカルトが自由意志libre arbitreと呼ぶ実在する力faculte positiveに裏うちされるものである。自由意志は無関心の自由(libre d indifference)でもある。

この前段でchevet氏はvolonteを解説している。これを意志と訳す。

疑いには意志(volonte)と力(capacite)が備わる。デカルト的2元論に当てはめれば、疑いは(思考)となり力はfaculte positive(実在する)本質である。すると自由とは「疑い選択し」その形式は「行動する力」である。この一連が自由で、究極は無関心であるとしている。

ここで注意、indifferenceを無関心と訳したのだが、周到に理解を回さなければワケが分からなくなる。与しない選択<qui ne tend pas vers telle chose plutot que vers telle autre (Robert) とすれば投稿子にも概念が掴めてきそうだ。何にも与しない選択が直訳であろうが分かりにくい。無関心の自由は定訳なのでこれを使う。

先入観、偏見などに惑わされず、結果がいかになろうとも喜びも悔やみも覚えない(=indifference)。この心構えで選択するのが自由意志(libre arbitre)なのだとデカルトが語った(ようだ)。

選択は常に二者択一である。ABか、花子ちゃんか明子ちゃんか。
どんな選択でも自己の利害に照らしたら、有利はいずれかでその対敵は不利である。利害判断で何事も選択できる。
この思考過程ではA,Bの利用価値、己にとっての善し悪しを判断する前提が必ず潜り込んでいる。Aが有利でAを選んだら自己は有利条件にdifferent(計算に入れる)である。これを自由と言えようか。有利さの僕ではないだろうか。

予備知識を仕入れてデカルト原著に入る。おおむね繰り返しになるがMeditations(デカルト著)から。

Pour le libre arbitre, je désire que lon remarque que lIndifférence me semble signifier cet état dans lequel la volonté se trouve lors quelle nest point portée, par la connaissance de ce qui est vrai ou de ce qui est bon à suivre un parti plutôt que lautre後略

拙訳:自由意志について申すと、余は、偏見、前判断なし、さらにはどちらを選ぶのが正なのか良しなのかに、人の知(volonte)が一切影響されていない状態が「無関心」なのであって、この点に注目していただきたいと願う。

 c’est en ce sens que je l’ai prise lorsque j’ai dit que le plus bas degré de la liberté consistait à se pouvoir déterminer aux choses auxquelles nous sommes tout à fait indifférents. Mais peut-être que, par ce mot d’Indifférence, il y en a d’autres qui entendent cette faculté positive que nous avons de nous déterminer à l’un ou à l’autre des deux contraires, c’est-à-dire à poursuivre ou à fuir, à affirmer ou à nier une même chose.

拙訳:無関心の自由を念頭に入れたとして、もっとも初原的な(le plus bas degre)自由は無関心であるはずのそれら物事に対して、まずなにがしらかに(関心を寄せ)特定する(選択する)とした。

おそらく無関心にはさらなる意味合いがあると気づいている。それは、選択する力を持って、眼前の2の物事をあれかこれかに特定して、肯定か否定し、受け入れるか退けるかして、いずれかを選ぶ。そのいずれかの選択をして、同じ事(une meme chose)であると受け入れる。

小筆;無関心の自由には2段階あって、1)先入観なしに虚心坦懐にいずれかを選択して(これが原初)2)選択した結果についても(後悔、後からの批判などせずに)無関心であることである。

無関心の自由がもたらす精神状態「libre arbitre自由意志」は、神の意志に限りなく近づくとデカルトは信じていた。
すなわち自由の中世以来の原義「惜しげなく愛徳を与える(神から与えられた)性向」にある神を=cogito考える個人=に置き換えている。そこに沈潜する愛徳、利益に与せずのvolonteとvertu(行動)は変わるところがない。

知において神に近づいた(解析幾何学の創始、本質の解明)デカルトは精神においても神に近づいた。

ここまできたらK氏の自由カツ丼とデカルト自由との接点が見つけられるかも知れない。しかし何となく釈然としない。

帰り際にまた立ち寄ったK氏、この機を無駄にはしない、ここぞと「ところでKさん」と質問を小筆が突きつけた。

「あんたは昼飯にカツ丼を食うのはのっけから決まっていると。理由については立ち上る湯気に身を託し、生きる証をカツ丼で確認したいとも聞いた」

「そのとおり、そのカツ湯気が私に残された唯一の自由だ」

呪文がごとくK氏が唱える「カツ丼の自由」とデカルトが教える「自由libre arbitre(自由意志と訳される)」の差はやはりここにあったのだ。両者を対比しよう。

ABかの選択を迫られる状況を設定する。K氏の昼飯ではカツ丼への入れ込み魂が全てを決めるから、K氏はそれを選ぶ。この過程に自由はあるのか?

カツ丼が他丼よりも美味であるから食らうべきとの脅迫感にK氏が迫られている。カツ丼選択においてK氏はliberte dindifferrenceなる心境に達していたか。いや、彼の心境とは無関心と正反対である。思いこみ、自己強迫である。デカルト様とは大違いの執着の固まりで選んだのだ。 自分の好みを遂行する、それが自由だとK氏が強弁している。

「諭吉だってそう言ってる筈だ」

横に手を振って小筆は、

「それを自由と言はない」

「なんと言うか」

「自分勝手だ」

「そんなはずが」

K氏の頬が引きつった。

「クックーンッ」

チャビ吠え声まで引きつった。

K氏の昼飯行動はカツ丼からの脅迫、カツ丼喰らいの不自由が正答であろう。 

狭き門(La porte etroite)はアンドレ・ジッドの作である。

発表は1909年、当時は(19世紀末から20世紀初頭まで)ベルエポックの盛り、しかし華やか世情の描写はこの作品にはない。若き男女、悲恋の顛末が一人称の語りで物語られるだけである。主題は自制と献身、信仰と帰依。20世紀を迎えんとする人の生き様から自由を以下に得るか、その一つの典型を描いた。

Recit(レシ、一人称の語り)形式でジェロームJeromeの追憶が淡々と語られる。ジッドはロマン(3人称形式で筋道を客観的に語る)を幾作発表しているが、これらは名作ではない。1947年にノーベル文学賞を受賞するが、ひとえに「狭き門」が評価されたから。1作のみでノーベル賞を受賞した。

 

あら筋;

主人公はアリサとジェローム、アリサの父とジェロームの母は兄と妹、民族学の説く「交差イトコ」である。ジェロームは12歳を迎えるばかりで父を失う。母はLe Havreからパリへの移住を決意、リュクサンブール公園の近くに「小さな」アパートを借りた。夏には叔父の住むフォングーズマールFongueusemareに逗留するを一家の習慣としている。この土地屋敷が母の実家でビュコラン(Bucolin)家の本貫、アリサ、ジュリエットらも住む。

カツ丼の自由はアリサの勝手でしょ1の了

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