レヴィブリュール(1887~1936年)フランス、哲学人類学。文化人類学の潮流は同時代(フレーザー・金枝篇)次世代(ボアズ北米インディアン研究)などに移り、その流れがレヴィストロースに引き継がれる。ブリュールの学問姿勢をレヴィストロースは辛口で批評する。写真はネットから。

レヴィストロースはたびたびルソーを引用する。人類学の始祖として尊敬しているとうかがえる。
 部族民通信ホームページ 投稿7月31日  開設元年6月10日 
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ボロロ族酋長 
悲しき熱帯より
 レヴィストロースのサルトル弁証法的理性批判第二部(最終)  サイト主宰
蕃神(ハカミ)義男
 

本稿内容は以下のとおり。

1 きっかけ 

2 反論は無かった

3      思考と存在のあり方の差異

4      歴史は存在か思考か

5      絶対神の弁証法

6      歴史は思想

7      耽美派お飾り文章屋

8      ペーパーナイフも弁証法も不可知 (以上が第一部弁証法理性批判第一部に移る)

9      生まれ損ないの畸形  

10   Cogitoの捕囚

11   誤謬か論理破綻か

(これより後半部分は民族誌学からの検証となるので割愛した)


(第一部に引き続いて)ルソーの引用から始まる。

Quand on veut etudier les hommes, il faut regarder pres de soi; mais pour etudier l’homme, il faut apprendre a porter la vue au loin; il faut observer les differences pour decouvrir les proprietes.(同294頁、ルソーEssai sur l’origine des languesから)

訳;人々を学ぶには自身の近くを見なさい、しかし個としての人を学ぶには視線を遠方に投げなさい。あらゆる変異を観察する事で人の特性を発見できる。

 

言葉通りの訳なので難しくはない。定冠詞複数のles hommesと単数のl’hommeを対比させている。複数が社会を、単数が「人、人間性」を表していると理解しよう。しかしちょっとした違和を覚える。社会は遠くから眺め、個の人を観察するなら近づくーこう考えるがもっともだが「個人は遠くから、社会は近くから」なぜ逆をルソーが教えるのか。

前後の文脈の流れで探れば真意も分かりそうだ。数行前に、

La valeur emminente d’ethnologie est de correspondre a la premiere etape d’une demarche qui en comporte d’autres : par-dela la diversite empirique des societes humaines, l’analyse ethnographique veut attendre des variantes=後略 (294)

訳;民族学の突出した業績は他の研究の取りかかりを提供しているにある。人社会の多様性を読み取り、その成果を通した民族誌学的分析が社会変異の解析に迫るのである。

 

社会は近くから眺めよとルソーが教える。その意は社会の多様さの底に隠れる共通性を探すために他ならない。さらに民族学は人間社会を数々のvariantes(変異)と見極め、それらの共通項を追求するのだから近づき観察するのだ(フィールドワーク現地調査と呼ぶ)。ルソーのetudier les hommesをかく実行しているのだからアリを研究するお飾り文章屋ではない、サルトルの勘違いを指摘する。

 

295頁に入るとreduire(縮小する)及びreduction(左記の名詞形、縮小還元の意味)、それにdissoudre(個体を液体に溶かす)が出現する。サルトル原典から用語を借りてレヴィストロースが論述している。analyser(分析する)の言い換えとして低い語感のdissoudreにおとしめるがサルトルのねらいと推察する。その語をレヴィストロースがあえて取り込み、dissoudreからreduireのプロセス転換を提示した。

この解説に半ページを費やす;

Elle offre aussi, souvent, un moyen efficace de les mettre en reserve, pour les recuperer au besoin et pour miex etudier leurs proprietes(295)

訳; Elleは前文の(solution、液体に溶かす)を受け、溶解する手順は有効で、それら(les molecules=分子=要素、サルトル用語)をまとめて取り置きできるし、必要に応じ取り出して、より効果的に解析できるというものだ。(おとしめたやり口を、レヴィストロースが逆さに振ってやり返し)。

続けて

L’explication scientifique ne consiste pas dans le passage de la complexite a la simplicite, mais dans la substitution d’une complexite miex intelligible a une autre qui l’etait moins.(295頁)

訳;複雑系を単純系に移行させる手法は科学ではない。複雑で分かりにくい事象をより分かり易い組み合わせに置き換える(la substitution)所に科学があるのだ。

 

皆様、おわかりかと。「複雑系が単純系に移動する」が歴史を弁証法に還元してステレオタイプに説明するサルトル(というかマルクスを含めた弁証法)のやり方。この進め方は科学的ではないとレヴィストロースが切り捨てた。一方「より易しく理解できる置換」はresoudreを経て解を探す、analyser分析するなどの分析的理性であります。

以上、レヴィストロースの言い分は「知の出発点が個の経験(実存主義)で、到着点が思考など相手にしない(神の)弁証法。この仕組みはあり得ない」です。

 

9 生まれ損ない畸形

 

めくる紙葉のその指を止めた頁の数こそ296。浮かぶセリフのおぞましさ、21世紀の今ならば物議反発をかもすrabougri et difforme生まれ損ない畸形(ママ)に出くわした。

前後の文の流れは;

Parfois Satre semble tente de distinguer deux dialectiques : la <vraie> qui serait celle des societes historiques et une dialectique repetitive a court terme=後略。引用の冒頭tentetentergerondifen ayant tente(原文eにのせられるアクサンテギュが無いを許せ)と理解してください。

訳;サルトルは2の弁証法を使い分けているかに思える。1は正しい弁証で社会が歴史を経てきた弁証法。2もう一方に短い間隔で幾度も繰り返す。弁証法なる定義を二重に想定している。

「哲学の著作なんだからさぁ、定義づけが大事だよね。一方でこう、片方ではあっちとなると理解不能。幸いにしてレヴィストロースがさぁ、頭が良いからサルトルの二重定義の仕掛けを曝いてくれたけど、独りで読んでいたらワケワカメのカオスになっちゃうとこだったわ」。フランス語愛好の島田明子嬢の批評でした。

 

続く文列で<繰り返す弁証法は未開社会に帰せられる。それは=tres pres de la biologie=生物に近いと批判する(提題3の解、検証の一部は既述)。

さてこの難癖どうしのぐか、以下に拙説、数行にしてレヴィストロースの代わりに述ぶるを許せ;

マルクス弁証法dialectiqueは、原始社会から(途中を省略)資本主義を経ての「必然」が共産経済であると教える。西洋社会が共産経済に行き着く寸前の20世紀はこの必然が目の前だから階級闘争に明け暮れるけれど、「未開社会」は未だその段階にすら至らず。「未開」のままにあっちは取り残されている。このなぜかの「停滞」がマルクス弁証法論者に気にいらない。サルトルは「彼らの弁証法とは繰り返す、間隔は短い、発展しない」未開原住民の弁証法だと大見得を切った(La critique~に述べたらしい、小筆は原典を読まないから知らない)。

継続発展してきた西洋社会異なり、発展出来ない「畸形」社会が未開社会であるとサルトルが定義した。民族学者(レヴィストロース)から反発を食らった。

 

レヴィストロースの反論は;

Il expose ainsi tout son systme, par le biais de l’ethnographie qui est une science humaine, le pont demoli avec tant d’acharnement entre l’homme et la nature se trouverait subrepticement retabli(296)

exposerは露出する、含意として(隠していたかったモノ)を曝す。biaisは英語のバイアスと同語で斜め線、ここでは狡猾な手段とする(=moyen artificieux et detourne de trouver une solutionお気に入りの解決策を探すためこじつけ手段。辞書GRから)。systemeはやり方全体、ここではson systemeだから彼のやり口の全貌。le pont demoliは粉砕された橋、subrepticementはこっそり陰に隠れて、感心しない方法である。se trouveraitは(存在する)であるが、条件法なので実現していない、そんな事は実現していないのだ。

訳;やり口全貌を彼はこのように暴露してしまったのだ。民族誌学は一つの人間科学(生物に近いモノを対象にしていない)であるのだが、それを斜め見しただけで狡猾にも人と自然の過酷な闘争の末に粉砕されてしまった橋を、隠れてこっそり修理し、直ったはずと錯覚した。

このあと、その語が出現する。

Sartre se resigne a ranger du cote de l’homme une humanite  <rabougie et difforme>サルトルは人間の脇に、<生まれ損ない....>のもう一つの人間界を侍らせ、安心している。

前引用のle pont demoli破砕された橋、acharnementしつこい攻撃が難解である。この表現は換喩(metonyme=簡単な語で複雑系を比喩する)であるとは自明でえ、何やらの複雑な事態が「壊れた橋」「過酷な闘争」に含意される。レヴィストロースはここに何を籠めようとしたのか。

続く数行;

non sans insinuer que son etre a l’humanite ne lui appartient pas en propre et qu’il est fonction de sa prise en charge par l’humanite historique (生まれ損ない)社会が(定冠詞のつく)正統な人間界には上手く収まらない事をほのめかしているし、かつそれが歴史の観点から重荷になっている錯誤をもほのめかしているではないか。

数行あとに未開を植民地に取り込む環境には闘争があった。一方で、未開社会を自然な「無垢な、穢れ知らない人」ともてあそんだ事もある。

 

未開社会の植民化、また反動としての「自然人」なる賞賛。移り変わりの様がもてあそびそのもので、これをacharnement攻撃(=換喩的に)と表現したと解釈します。未開と文明の位置関係をあい交わらない断絶してしまった橋(pont demoli)との表現をとった。しかしサルトルは一方は究極に向かい片方は経緯を繰り返すのみなのだけれど、いずれをも「弁証法の真理」に照らせば、歴史必然をたどるのだと「こっそり狡猾に」、壊れた橋を修理した(つもりになった)、と解釈します。

引用にある entre l’homme et la nature>は隠喩metaphore(複雑語をして単純な事柄の言い換え)となります。すなわち「人と自然」を対にして文明社会文明人のあり様を「未開社会自然人」と対局に置いてモンテーニュ、ルソーが論じモラリストなど文人も加わり、幾度も繰り返された論争を表す(と解釈する)。

しかしながら「生まれ損ないの社会」なる乱雑差別語を、レヴィストロースは己の言い回しと知見とで篩いにかけて、真向批判なるも修辞の林に昇華させた。

 

そしてレヴィストロースは;

<前略=la richesse et la diversite des moeurs, des croyanaces et des coutumes=中略=des milliers de societes qui ont coexiste sur la terre, ou qui se sont succedes depuis que l’homme y a fait son apparition (296)=後略。

訳;人がこの世界に現れて以来、精神、信仰、風習のとてつもない豊かさ、多様さを共有する幾千もの社会がこの大地に共存し、それら社会がおのおのの存続していた。

サルトルが「畸形」と片付けた(未開)社会を、民族学の成果をかざし、好意的に正当に評価している。

 

Qui commence par s’installer dans les pretendues evidences du moi n’en sort plus. La connaissance des hommes semble parfois facile a ceux qui se laissent prendre au siege de l’identite personnelle.(La pensee sauvage297)

訳;自我(le moi)はあるとの主張から始まる者はそこから抜け出られない。個にこだわりこり固まっている者は、時として、人社会の解明は易しいと思えてしまう。

使われる動詞semble、原形semblerはそのように見えるであって(原文では易しく見える)外貌を伝えるだけ、内実が事実であるとの担保は与えない。

Ils se ferment ainsi la porte de la connnaissance de l’homme.かくして、 彼らは人間理解に至る門を閉めている。(個人経験に囚われたら外界の理解は難しい)前文と重ね、実存主義を否定している。提題1の解(本投稿の第一部)。

10 Cogitoの捕囚

En fait, Sartre devient captif de son Cogito, celui de Descartes permettait d’acceder a l’universel, mais a la condition de rester psychologique et individuel ; en sociologisant le Cogito, Sartre seulement change de prison. Desormais, le groupe et l’epoque de chaque sujet lui tiendront lieu de conscience intemporelle. Aussi la visee que prend  Sartre sur le monde et sur l’homme offre cette etroiteness par quoi on se plait traditionellement a reconaitre les societes closes.297頁) 

訳;(個を主張する)サルトルは自身のCogitoの捕囚に成り果てた。デカルトのCogitoはあくまで個の枠内に留まるが、森羅万象に肉薄する。サルトルは個のCogitoを社会化を試みたものの(住み込む)牢獄を替えただけ。故に思考を巡らす主題の集合にしても、時期にしても、時間など超越した個の「意識」にしまい込まれる。同じく人と社会に向けるサルトルの視野は狭量に閉じこめられ、その視野を通して人は「閉ざされた社会」を伝統の視点で再認識してしまい、逆に心がやすむのである。

 

Cogito知でのサルトル、デカルトの対比をこれほどの短節でかくも明瞭に語るは修辞の大家レヴィストロースならでは。デカルトでは知は個に宿るとするが、その源泉は神からの授かり。故に森羅万象に接近できる。ではサルトルにおける歴史、弁証法の論理展開の有り様をたどると(PDF1PDF2PDF3を参照してください);

思考を形成する主体は個にとどまる。個にとどまる限り思考は(歴史=dialectique)の進展には参画できない。そんな自明の絡繰りに、ようやく気づいたサルトルは、個を社会に敷延した。sociologir=社会化する=なる動詞を用いたがこれはフランス語にはない。個の事象が集団化する(serialite)なる仕組みを証明したと信ずるサルトルは、さらに社会の万象を実存主義の切り口で、論ずる事ができるとまで勘違いした。

 

そして;

Sartre, qui pretend fonder une anthropologie, coupe sa societe des autres societes. retranche dans l’individualisme et l’empirisme, -un Cogito- qui se perd dans les impasses de la psycologie sociale.(298頁)

訳;サルトルは一種の人類学を創造すると主張する。そして、彼の社会をすべての他社会から切り離した。さらに、個人主義と経験論(実存主義のこと)を固守ためにCogito思考を持ち込んだ。しかしその思考は社会心理学(sociologirを解説する文言)の行き止まりに迷い消えた。

sa societe=彼の社会。彼が求める弁証法真理が進行している(筈の)社会。その社会は「個人経験主義=実存主義」のくびきから抜け出ていない訳だから、Cogitoは発展できぬまま、袋小路に停滞した。Retrancher1分離する 2引き離して固守する の2義がある。2では(重要地点)を防御する意味合いが強い。ここでは2をとる。すべての他社会とは彼が否定した未開社会。

 

il est frappant que les situations a partir desquelles Sartre cherche a degager les conditions  formelles de la realite sociale : greve, combat de boxe, match de football. queue a un arret d’autobus, soient toutes des incidences secondaires de la vie en societe ; elles ne peuvent donc servir a degager ses fondements.()

訳; サルトルは(弁証法成立するために)現実社会でどのような形態があるかの説明で、ストライキ、ボクシング試合、サッカー、バス停の待ち列などを例証とするが、あまりにも衝撃的だ。これらはいずれも生活の二義的な事象である。それらから(弁証法が成り立つ)基礎条件は見つけられない。

解説;本来は個人段階での思想活動、あるいは小説の主題であるべき実存主義を社会化して、pratico-inerte(実践的惰性)、totalisation(総括、止揚)、interioriser(内包)、exterioriser(外延)など用語を編みだし、同時にそれらをして歴史展開の起爆に化粧直しした。

例えば;

バス待ち集団は地域も目的も均等なのでserie=つながり=とされるが、すぐには革命を起こそうなどとは行動しない。それをpratico-inerte(惰性性向)とした。ソ連における共産社会への移行が停滞しているも同じく官僚公務員などのpratico-inerteであると。個人の性行である「惰性」を集団化している。

しかるに、精神活動でしかない観念を歴史の必然に取り込むサルトルの論理とは、真理(dialectique)を、絶対神から知性を授けられない筈の人の知性、分析で説明する愚かな試みであるとレヴィストロースが批判した。

レヴィストロースにとっては、歴史は出来事anecdotesを積み上げであり、歴史家が、己が内に持つ思考を基礎にしそれらを解析する「思想」である。

歴史においても、思考と事象との相互性reciprociteが認められるとする。これは構造主義の立場。PDF3にその内容が。

 

蛇足;くたびれたから話題を変えて、前引用文中のprison牢獄について語る。

かの地フランスでは思想を建物に喩える。デカルト哲学であればedifice(大建築物)に値する。スピノザの小部屋には「窓がない」と揶揄される。この言い回しよく分かる。面白みがないしゆとり救いもない。サルトルは「牢獄」に住む。

 

Le role de la raison dialectique est de mettre les sciences humaines en possession d’une realite qu’elle seule capables de leur fournir,  mais l’effort proprement scientifuque consiste a decomposer, puis a recomposer suivant un autre plan.(298)

訳;弁証法理性とやらの役割は人間科学を「とある一つの“現実”」に閉じこめることにある。その現実を提供するのは弁証法のみという(空回りの絡繰りが)ある。一方、正しく科学的とはまず分解し、別の手順により再構築するところにある。

続いて(以下の原典は略)

サルトル弁証法により社会化された(集団の)思考は、今、生きる時代をinterioser,exterioser(作用反作用)し、総括(totalisation)止揚する。止揚した暁に構成要素(存在、モノ)も、1の段階を踏破したからに、属性attribuが変化するとサルトルは言う。このように考えてはならない。上記のみならず複数の引用でサルトルが開陳するdialectiqueの仕組みにレヴィストロースの反論が、論理的に綴られている。

 

Ce n’est pas toutそれだけではない;

Il ne faut pas que la raison dialectique se laisse emporter par son elan, et que la demarche qui nous mene a la comprehension d’une realite autre attribue a celle-ci, outre ses propres caracteres dialectique, ceux qui relevent de la demarche plutot que de l’objet : de ce que toute connaissance de l’autre est dialectique, il ne resulte pas que le tout de l’autre soit integralement dialectique(298~299)

難文です。

理解への鍵は下2行目の<de ce que toute connaissance de l’autre est dialectique>にあります。動詞etreは直説法現在で用いられるから、これは事実。「他者すべてを知るとは弁証法との事実」と訳す。ここでの弁証法とは理解する仕組み、経時に進む思考回路と読みます。カントに上れば分析思考の補完思考、レヴィストロースは「構成する弁証法」と伝え、小筆の解釈では「演繹法」に基づく進め方を言います。すると他者(人のみならずいろいろな事象)を知る手だてとは、経時的に演繹的に知っていることを構成する、となります。

il ne resulte pas que le tout de l’autre soit integralement dialectique. それだからといって「他者のすべて」は弁証法に包括されない。弁証法(思想だから)はモノ(他者)を組み込まない。(こちらのetreは接続法なので不確か)

他者に接する弁証法は「理解しinterioriser、還元しexterioriser、本質を探るtotaliser」ここに「他者認識」における弁証法理性が成り立つ。レヴィストロースはこの弁証法理性を容認する。しかるに、(サルトルの)弁証法は、個人の経験が社会化し、集団(serie)にまとまり歴史の収斂に向かい行動し、属性を次段階に引き上げる。この「歴史の必然、真理」なる弁証法(ヘーゲル、マルクスの用法)をレヴィストロースは認めない。

これら前提を踏まえ前引用文の意訳を試みる;

訳;(サルトルの語る)弁証法論理を跳躍のままにさせては(のさばらせては)ならない。

その論理は(他者である)事態を理解する手助けになるが、理解した事実を(属性まで変えてしまう)弁証法の仕掛け成就に寄与してはならない。理解している事実とは(弁証法思考)本来の付加物ではない。物事を理解して、引き出される諸々は弁証法の本来性質ではないので、弁証法に帰趨させてはならない。(他者のすべてを弁証法に組み込むとは、止揚にいたる行程とその結果属性が変わるを是認することである)

存在(etre)は弁証法になり得ない。弁証法はあくまで思索の手だてとして人が活用する思考の一典型である。サルトル思考(サルトル弁証法)の組み立て方とは、思考を存在、あるいは存在の従僕ととらえる。思考は先験に導かれる人の知的活動とレヴィストロースは(カント的に)とらえるので、思考の有様における根本差異をここでも確認している。(これも提題1の解である)

 

11 誤謬あるいは論理の破綻

Ce paralogisme est deja apparent dans sa facon d’invoquer une histoire dont on a mal a decouvrir si c’est cette histoire que font les homes sans le savoir=後略=299

paralogisme2の意味をもつ。1は誤り、誤謬、2は「本人が気付かない」論理の破綻、これを論過と云う(白水社大辞典)。ここでは論過をとる(哲学用語として主唱したのはカント=哲学事典の受け売り)。レヴィストロースが「君は気づいてないが論理の進め方に間違えがある」と指摘する相手はサルトル。引用のdans sa facon saはサルトル、sans le savoirle paralogisme。すなわち「気づかないままに犯す論理破綻に、いまだ気づいてない」。

訳;サルトルは己れ一流のやり方で一種の歴史解釈を提案しているが、論理の破綻が窺える。なぜなら、彼が語る歴史とは(この後は後略した文の訳)1誤りと知らずに人々が進めた歴史なのか、2歴史家が(その誤り)を知りつつ(無理に)解釈する歴史なのか、3あるいは「哲学者」が解釈した(誤りの)歴史なのかを判別できない。

諭すがごとく丁寧に論過3通り上げているが、文脈からして3の「哲学者が誤り解釈した」歴史を選ぶのが自然である。哲学者にle定冠詞が被さるがこれは「一般的」哲学者ではなく「ここで話題の哲学者」のサルトルを指す。本人自身が誤りの発信者である。

 

気づかず歴史に押しつけたサルトルの誤りは何か。この前文を読む;

A force de faire de la raison analytique une anticomprehension, Sartre en vient souvent a lui refuser toute realite comme parite integrante de l’objet de comprehention 299頁)

2行目a lui refuserluila raison analytique.

訳;分析的理性を「反知性=anticomprehension」と規定したいあまり分析的理性から、現実を、それこそが理解するための重要物なのだが、排除した。(弁証法を盛り立てるあまり知らないうちに、分析的手法の成果を見ぬふりをした)訳注:この言い回し(en vient a lui...)は直説法現在を用いる。確定している事実である。

未開社会を再び取り上げます。

サルトル論法、生まれ損ないの畸形では「未開社会」は説明しきれない。そこで;

<<Il croit que son effort de comprehension n’a de chance d’aboutir qu’a la condition d’etre dialectique ; et il conclut a tort que~(同書299)

拙訳;サルトルは(何事に付けても)弁証法的でなければ、いかほど努力しようと理解に至らないと知るから、以下の如く、誤って結論に到達した;

(前の引用que~に続いて)<<le rapport, a la pensee indigene, de la connaissance qu’il en a est celui d’une dialectique constituee a une dialectique constituante, reprenant ainsi a son compte, par un detour imprevu, toutes les illusion des theoriciens de la mentalite primitive.

訳;サルトルが信ずる先住民の思考とは「仕上がっている弁証法」であり(これと西洋文明を対比するのが)彼の理解の根幹である。しかし(この対比は)幻想にしか過ぎない。「未開人」精神なる幻影を、行程不明の回り道に迂回させて、(辻褄を合わせるため)計算(compte)に引き入れたのだ。

引用文の解釈; indigene(先住民)の論理は「未開の思考」から派生しているとの学説をレヴィストロースは否定している。これを主唱したのはLevy-Bruhl1857~1939)なる民族学者、20世紀初頭には多くの賛同を得た(らしい)。しかし、民族学の先学(金枝編のフレイザー、北米インディアン研究のボアズなど)によって否定された。コトもあろうに、サルトルがその説に食らいついた。

Que le sauvage possede des <<connaissances complexes>>et soit capable d’analyse et de demonstration lui parrait moins supportable encore qu’a un Levy-Bruhl(299)

拙訳:未開人は「複雑性への理解」を持つであろうこと。彼らが分析し説明する事実があろうとも、それら事実はサルトル氏にとって「un Levy-Bruhlとか名乗るヤツ」よりも助けにならない。

soit>は接続法、すると対となる前文の<possede所有する>も接続法。云っている内容は事実だから、事実を接続法で示す意味は<a la troisieme personne, un souhait,un desir, un regret. 3者に期待、願望、遺憾を表す。固有名詞(Levy-Bruhl)に不定冠詞のunを付ける用法は「軽蔑の強調」(文法書Le bon usage)。

意訳:己がLevy-Bruhlとやらに成りきって、未開人は原始的とはしゃぐ方が、彼らの分析力、表現力を肯定するよりもラクだから。

筆法に託すは怒り、いや増しに雲すら震わす怒濤の打ち寄せ、レヴィストロースは;

Parmi les philosophes contemporains, Sartre n’est pas le seul a valoriser l’histoire aux depens des autres sciences humaines, et a s’en faire une conception presque mystique. (305)

引用文2行目の et そして>> で前文とは切り離され、文意は反転する。よって「しかるにmais」を置くとすんなりと読める。修辞番長のレヴィストロースはこうした場合「それ故にet」でつなぐ。彼の頭の論理進行の行程を覗き見るようです。

さて<mystique>とは神秘的、しかし分からない。Robertを開くと「直感に判断を委ねる教条」が載っているからこの意を採る。

訳;同時代の哲学者、その数あまた、サルトルのみが他の科学をないがしろにして歴史を持ち上げている訳ではない。そして(しかしと読めばよく分かる)直感に頼る神秘主義を標榜するのは彼のみだろう。(etmaisに置き替えれば)分かりやすい。耳と頭に優しいけれど言い回しはbanal平凡となる。

 

この後、歴史学と民族学の対照に入る;

歴史学は地域に孤立する社会の時系列の繋がりを主題とするに対し、民族学は地域に分散し孤立していない社会の共時系をそれぞれに比較するとする。ゆえに、歴史学と民族学にはsymetrie(対称)が保たれるとする。PDF3をご参照。

Ce rapport de symetrie entre l’histoire et l’ethnologie semble etre rejete par des philosophes qui constestent que l’etalement dans l’espace et de la succession dans le temps offrent des perspectives equivalentes.(305)

拙訳;歴史学と民族学のこの均衡関係を否定する一派がいる。

ものごとの空間での伝播、それと時間をつないだ関連、これが同じ次元で継続するのだと主張する人たち(教条的弁証法の論理)。故に、歴史と民族の対称関係などないと否定する哲学の信奉者からは受け入れられない。

先述したが弁証法の論理は系列依存、地域非依存である。共時的多様性(地域依存)は、弁証法の枠の内(系列依存)で説明できるとする哲学とは教条的弁証法です。

以上が未開社会批判への反論です。

 

次の文節で弁証法メカニズム、サルトル流の要のtotalisation批判に移る。

ちょっとした解説を;

(幾度か述べたが)実存主義とは存在が先にあって、存在から個人は思考せよとの脅迫を受ける。そこで個人は思考Cogitoを形成する。この仕組みをサルトルは歴史に応用した。すなわち歴史必然=弁証法=が個の前に、あるいは集団の前に、真理として存在する。思考する義務に個が目覚めるとは、真理に参画することとなる。弁証法をかく経験する(engagement)わけだが、それらはサルトルが(分析的に説明する)interioriserexterioriser、あるいはtotalisationの「個人の精神現象」の階梯段階に、すなわち実存主義で個の形成を陳述したやり方の焼き増しにとどまっている。

しかし、個のCogitoが集団のCogitoに変遷するなどあり得ないとレヴィストロースは批判する。その文章が以下;

<<Il y aurait beaucoup a dire sur cette pretendue continuite totalosatrice du moi, ou nous voyons une illusion entretenue par les exigences de la vie sociale (同306頁)

拙訳;いわゆるあの「総括する自己と連続性(集団)」をとりあげれば批判を種々、加えられることだろう。そこは社会生活の各種の規制、強制に曝される幻想としか思えない。

提題にもどると、

1 実存主義は非科学である。

2 (サルトル)弁証法は一つの思想を歴史必然に置き換えている。「神」だからそれ以外に説明などできないし、分析手法で説明したところで自家撞着する。

3 サルトル的弁証法は未開社会を文明社会よりも劣るとするなど非人間アンチヒューマンである-に集約される。

 

これらについて反論不能にまで追求した論文でした。文学作品で成功した手口を哲学に応用してしっぺ返しを喰らったか。レヴィストロース野生の思考(La pensee sauvage)第九章Hisotoire et dialectiqueからサルトルへの批判を紹介しました。

 

最後;本章のこれ以降の10頁は民族学、社会人類学に論点が移る。小筆の理解を越えるので本解説から割愛した。

レヴィストロースのサルトル弁証法的理性批判 了