野生の思考第9章歴史と弁証法
先住民の分類システムの例:上から全体、物質、植物、草などと細分される。これをして「統合的」としている。クリックして拡大(野生の思考169頁)
サルトル来日、慶應義塾大学での講演に際し多くの学生に迎えられる(1966年)写真クリックで大画面に。ベトナム戦争反対のプラカードが見える。決して両手上げてのの歓迎ではなく、反戦団体のアピールに巻き込まれたようだ。当時はべ平連なる団体が反対運動を主導していた。何らかの関連があるかと推察する。写真はネットから採取。
猿構造が非情なら人構造はなお非情
サルトルと自称する女。

ネットでサルトル氏の画像を探していたらとびきり見栄えのいいのが見つかった。
しかし;
これがサルトルだろうか、いくら実存は自由だと主張しても、あのサルトルがこんな美形に進化する道理がない、ネットの魔宮に迷い込んだのだ。
アップしてしまったから、己の至らなさを猛省するだけだ。反省の証し、画像はしばしこのままにしておく。そのうち皆さんにおなじみの顔に替わるから待っていてくれ。

PDF第一葉「知の源泉...」の写真上から知の源泉、弁証包帯分析理性。理論の展開の3項目につきレヴィストロースとサルトルの言い分をまとめた。写真クリックで拡大。
 部族民通信ホームページ   投稿7月31日  開設元年6月10日 
   部族民通信  人類学神話哲学フランス語修辞レヴィストロース解説
哲学ページに  弁証法理性批判二部に
 
 酋長さん  レヴィストロースによるサルトル弁証法的理性批判 1 サイト主宰
蕃神(ハカミ)義男

201835日から4Goo Blogに投稿したブログをHP向けに書きなおした。訂正、加筆がある)

1      serialite(連続性)はサルトル造語で例として個人体験がとある場で集団体験化する現象を表す。これをして次段階への進展(totalisation)の起爆としている。レヴィストロースがこの原理は(無定見に)物の属性を変えてしまう。個人的に獲得した経験(実存主義の説く自由、思考)が集団に埋没し(集団として行動するので)無個人と変わるとして批判する。

2      二人の対立は哲学の究極課題「思考と存在」のあり方、その解釈の落差に起因している。初回投稿で気づいていたが説明足らずだった。その点につき各所、説明を加えた。

関連する主題として、弁証法・構造主義(悲しき熱帯より)哲学者の使命部族民通信ホームサイトに投稿している。

 

本稿内容は以下のとおり。

1 きっかけ 

2 反論は無かった

3      思考と存在のあり方の差異

4     歴史は存在か思考か

5      絶対神の弁証法

6      歴史は思想

7      耽美派お飾り文章屋

8      ペーパーナイフも弁証法も不可知

9      生まれ損ないの畸形  (弁証法理性批判二部に移る)

10   Cogitoの捕囚

11   誤謬か論理破綻か

(これより後半部分は民族誌学からの検証となるので割愛した)

 

1 きっかけ 

著書「弁証法理性批判(Critique de la raison dialectique)」(196012月出版)でサルトルはメルロポンティの知覚の現象論(=phenomenologie de la perception)を批判したが真の狙いはレヴィストロースへの構造主義であるとされた。(=巷間の解説による。これがその通りだったかは原典を開かなければ判断できない)

*サルトル、メルロポンティ論争をネットで振り返る。あるサイトがまとめている(Cairn.InfoMichelKail)。1スターリンによる言論弾圧、収容所送りが喧伝されるにもかかわらず、サルトルはソ連を批判するどころか同国を訪問し(1954年)共産主義プロパガンダの片棒を担いだ。メルロポンティはこの姿勢を「超ボルシェヴィスムultra-bolchevisme」と批判した(1955年)。サルトルからの反論はなく、しかしなぜかボーボワールがしゃしゃり出てポンティを「似非サルトル主義者」感情を表に立てた個人攻撃の一文を発表した(同年)。1956年にハンガリー動乱画発生、ソ連の武力介入、弾圧、ナジ首相など改革指導者を(在ブタペストのルーマニア大使館から拉致し)ソ連邦内で殺害するなど、いずれが人道として政治姿勢として正しかったかは自明となった。

ソ連支持に寝返るにサルトルは最悪の時期を選んだと揶揄された(落ちた偶像と囁かれた。この辺りの情報は日本には入っていなかった。サルトル信奉者が恣意的に情報をせり分けていたのか)

**弁証法理性批判でサルトルが構造主義批判を展開する骨子は1歴史視点に欠ける 2社会も歴史も万物の神、宇宙真理の弁証法が君臨統治しているわけだから、弁証法の視点で未開民族を批判せねばならないーとする。故にレヴィストロースからの反論が「弁証法は神か」「未開民族は弁証法の捨て子なのか」に集中している。

***前述の通り小筆はサルトルの原典に接していない。レヴィストロースの反論を通してサルトルの批判を類推する手法をとる。理由はそもそも(ヘーゲルマルクスの)弁証法と共産主義への傾倒はサルトルの失態なので他人過ちを検証するに時間をさくは値せず、さらに彼は文学者なので、文学的哲学を理解する能を我有さずーの2点からである。(アマゾンで探したが高いからワンクリック買いをやめた、これが3点目で本音) 

 

レヴィストロースは手際よく;語の不謹慎感に戸惑うも、一年を経ず196110月に出版された野生の思考(La pensee sauvage)の最終第9章にサルトルへの反論を付け加えた。タイトルはHistoire et dialectique=歴史と弁証法=。8章までの内容は、未開とされる民族の思考を論じているが9章の内容は全く異質、全文あげてサルトル批判である。本書の執筆開始は1961612日と奥付に残るから、筆をとる6月前にサルトルからの批判をレヴィストロースが関知し、本題「野生の..」執筆に力を注ぐ傍ら、サルトルへの反論をとりまとめていたと察せられる。

前記奥付とは最終章最終行の記載で、稿了が同年1016日と分かる。「手際よく」の言い回しは、一年も経たずにこれほどの内容で反論した事情を言い換えたつもりである。メルロポンティは19615月に執務中に急逝した。レヴィストロースが野生の思考の執筆を始める1月前である。反サルトルを巡る対話は二人にあったのだろうか。

さて、本論に入る前に3PDFをご参照ください。解説は下に。
PDF1 PDF2 PDF3

第一葉 PDF1 「知の源泉、弁証法対分析理性」

一段目知の源泉。レヴィストロースはカント哲学の先験を知の根源に置く。経験を経ずに人は知をもてる。この思考が近代科学の基礎となったわけで、人文科学者として彼もカント思想に依る。サルトルの実存主義は起源をハイデッカーによると一般に膾炙されるが小筆はそれを知らず。ネットで仕入れた解説は「知の以前に存在があるから人は知(自由)を取得する責務を負う(らしい)」。ともかくこれでスタートしよう。

2段「弁証法対分析思考」でレヴィストロース(カント流ながら「分析」とは異なる“構成する“思考、すなわち「演繹」手法)の弁証法による思考展開を記述した。彼において基本は分析となるも、この弁証法的思考をも取り入れ、思索に厚みを呼び込む。一方サルトルは弁証法こそ神、真理の立場。しかし両思考が補完関係にもあるとぶれる(本文中)

3段「理論の展開」は本文に詳しいので欄内の記述を流し読みしてください。

 

2PDF2社会歴史個人の立ち位置。

1段目知の取得;構造主義と実存主義を対峙させた。左側(レヴィストロース)で構造主義を確立するに先験と図式論に加え弁証法を取り入れている。欄中の文で「dialectique constituante構成する弁証法」としている、これは省察1でまとめた(カントの)弁証法で、ヘーゲルマルクスの歴史必然の弁証法ではない。左右を鳥瞰すれば個がいかにして知を取得出来るか、その仕組みにおいて両者の差異がわかる。レヴィストロース構造主義とは実体と思想の相互性である。実体は目に見えるモノ、個別であり集合でもある。モノには属性がつきまとうから、それらを集体して思想に昇華させる。思考を生み出す力が先験、実体と思考を結ぶ力が図式、いずれもカント思想、用語である。レヴィストロースはカント主義者を自認しているので、構造主義とカント哲学を結び、知の取得とした。その右の欄がサルトル実存主義における知の取得。個は存在の後に生まれる。存在は知を持たないから個は経験を通して知を取得する自由に迫られる。個の知は経験に限定される。カント先験と差異がわだかまる。

2段目個の位置について。構造主義における個とは思想を持ってそれとする。個を調べるのではなく思想を調べる、自然科学なので当然です。右欄のサルトルでは「知を得た個が連続性(serialite)の仕掛けで集団化する。集団として行動(praxis)する。せっかく得た個の自由()が否定される。個人の意見を認めない共産社会の教条をサルトル慧眼は見抜いていた。さらにサルトルの「弁証法的理性批判」は哲学書の風体をとるがその基準点は実存主義です。実存主義は個人心情レベルでの展開は期待されるも、(西洋)哲学の根本の「知と本質」には解を出していない。そのあやふやさの出発点がserialiteなる集団化において、個がいつの間にか非実存になってしまったからくりでもある。この辺りは本文に詳しいので。

3段目の社会歴史。レヴィストロースは社会とは共時性の逸話を個、ないし集団が地域因果にとりまとめ統合した思想と教える。歴史は社会の正反で経時性の逸話を系列因果にとりまとめた「歴史家の思想」であるとする。サルトルは弁証法を真理とする。個から集団、社会へとexterio-interiosationの息吹が吹き荒れ、社会は共産化へ向かうとする。

PDF3葉目PDF3に「社会と歴史レヴィストロースとサルトルの相違」をまとめた。レヴィストロースは歴史を歴史家の持つ思想とする、これは人類学者が未開社会を研究する姿勢と同じである。

 

2 反論は無かった

21世紀(2019年)レヴィストロースからの批判に対するサルトル陣営からの反論はいかなる具合だったか。昔にしても半世紀を越す、同時代人でない小筆にその辺りの推察は能わず。ネットを探ると「実存主義の終了」「反論も出来ず」が主流、レヴィストロースへの好意的な論調が読める反面、サルトル自身あるいはその手下家来の陣営からの「反論の反論」は形成されず、論壇あげての「論争」には進展しなかった。partisans de Sartrehommes dits gauche(サルトルのパルチザン戦士、左側とされる一派=語は野生の思考から)は「資本主義追随者のあがき」「歴史法則への無知」などの反論が出たとの解説を本書第9章で見かけたが、それらは哲学者でも人類学者でもない。教条主義者(共産主義者)アジテートまがいの反論である。

取り憑かれた共産主義に墓穴を掘られたサルトルとまでをネットで読んだ。

反論を展開できなければ、「負け犬」に貶められてしまう。勝ちが正しい怜悧な原理である。サルトルにも例外の取り扱いは働かず、手際よく「実存主義と歴史弁証法の野合」は裁かれ、完璧に葬られた。

彼は1966年に来日したが、フランスでの論争事情を知らない呑気な「サルトル信者、日本におけるpartisans de Sartre」達の熱烈歓迎に浮かぬ表情を見せていた。彼と伴侶シモーヌボーボワールの困惑した顔付きはネットでも窺える。憶測では論争負けから未だ立ち上がれず病未快癒の顔、あるいは過去の人となった老文学者の姿であろうか。

 

時空ワープする。

1950~60年代は60~70年の前。哲学民族学などのフランス出版事情を(ネットで)振り返ると;メルロポンティの「弁証法の冒険」の発刊が1955年(1945年からサルトルと哲学誌を共同編纂していたが1953年に決別した)。レヴィストロースの「悲しき熱帯」は1956年、「野生の思考」1961年、構造神話学の嚆矢の「生と調理」1963年。「弁証法理性批判」(サルトル)1960年。大戦終了のすぐの後から文芸活動がこれほどに活発化した理由とは、この共和国は第二次大戦を戦わずドイツに負けた、戦争には幾つかの部隊を除けば、一兵も「参加」しなかった。故に戦死者がいない(表向き50万人戦死者なる「統計」が出回るも根拠はない)。戦前の文芸思潮と文化人がそっくり残っていた。戦前も戦後も同じ顔ぶれがケンケンガクガク、喧しく世間をにぎわせた。小筆の邪推が加味されている、信じないでください。

 

とりまとめると;

サルトル著作「弁証法理性批判(Critique de la raison dialectique)」へのレヴィストロース反論の趣旨は、

1       実存主義は非科学である。(勘違い哲学)

2      (サルトルは)弁証法とは歴史必然としている。必然の上に「神」だから(=サルトルの言)、それを人は説明できない、人の知恵なる分析手法で神を解析したところで自家撞着する。(方法論としての問題)

3      サルトル的弁証法は未開社会を文明社会よりも劣るとするなど非人間アンチヒューマンである-に集約される。(人道としての瑕疵)。

 

上記1~3を提題として、解が各所に散りばめられる。

 

早速取りかかろう。言葉から、

totalisationは辞書には総計とあるが、これでは文の脈絡で意味がつかめない。サルトルが自身の用法を新たに付加した用語なのだが、原典を読んでいない筆者はこれを「総括」と訳し、以下に解釈する。totalisationとは弁証法での段階(categorie)を乗り越えて、次段階に揚がる(止揚)行動に当たるとする。synthese止揚をフランス語は用意しているではないか、異議を唱えたくなる。こちらはヘーゲル用語で弁証法の第3作用を表す。語感が機械(物質)的で「非人間性」が抜けていない故、響きを嫌ったサルトルの造語理由であろう。たしかにtotalisationには人の意志が窺える。実存主義とは宇宙経験を個人思考に純化する文学性を帯びた哲学と理解するが、個人を前面に持ちたてるサルトル考察が漂う。

しかしここで根本からしての曖昧が浮き出る。なぜなら弁証法が歴史必然であれば、個人の意識活動など必然の前に置かれたら、無価値でしかないとレヴィストロースから批判された。実際にその過程である弁証法的serioliteには個人が疎外される。

 

そこにおける論理とは;

サルトルはdialectiqueを(ある一点に収斂する)必然の歴史真理としている。個人の経験、心理活動なる実存的個人(en-soi)が何らかの作用で(バス停車場なんかで)集団化(serialite)し、歴史意志が備わり必然とはこちらと判断totalisationし、とある一の方向をめざしたり、うまくいかない場合もでてきたりpratico-inerteなど、それでも(弁証法で語る)歴史の起爆となるのであれば理論を超した真理と言える。神なのだからその筋道を誰かが説明するなど不要である。

絶対なるdialectique的必然を、とある個人が(個人経験の)算段をもって分析(analytique)するというアンビバレント状況がそこにある。弁証法が宇宙真理であるならば、個人体験がそれを説明するは不要不可能である。レヴィストロースが切り捨てた理由がこのtotalisationの作用に含まれていた。

dialectiqueが真理であるならば、人間行動も科学の発見も、何事もそれはdialectique真理に収斂していくと宣言すれば事足りる。それが歴史必然で正統なのだと伝えればよろしい。その思考を哲学と呼ばない、宗教であろう。

 

3 思考と存在のあり方の差異

思考と存在のあり方を振り返り論争理解の(攻略本として)方向付けとしたい;

3-1 デカルト;

絶対なる神をめぐり思考と存在の相克が常に表面に出る。思考(cogito)が物事の本質(essence)を見極めるとした。思考は神から授かった能力なので森羅万象の存在すべても神が創造したのだから、(神の思考で)考えれば本質に迫る道程はあり得るとする。本人は解析幾何学なる数学分野の開祖者なので頭の具合よろしかったから、かく考えた。

 

3-2 メルロポンティの現象論では本質は場(milieuchamp)にあると教える。しかしそのままでは探れない(雑景や雑音で見えないし聞こえない)。知覚(perception)を通して混乱の場から秩序(ordre)を探ることで人は本質に近づく。セザンヌはサントヴィクトワール山の本質をキャンバスに描いて迫る。氾濫する卑語俗語から意味を成す語句を選択し、組みなおし心の本質をランボーが抉る。(デカルトの)存在=etreを場=milieuに置き換え、混乱が見えても本質は(神の)秩序だと主張した。

(なおカソリックのメルロポンティは、場とは神の創造物ゆえ「混乱chaos」であるなどの表現を用いない。不遜にも小筆は場とは混濁、知覚(思考)が混乱から秩序を引き抜くと解釈する)

余談:彼は敬虔なカソリックとして生きた。「可愛くて(assez beau)上品な生まれをほのめかす仕草(l’allure d’un jeune homme de bonne famille)のtalas=高等師範学校ecole normale superieureのカソリックの学生=と描写されるPradelleなる若者がメルロポンティであると聞いた。ボーボワール「娘時代」の一節です。メルロポンティを無神論とする向きもあるが、神と現象論を結ぶ理解としてこの逸話をはさんだ。

 

3-3 サルトルはデカルトから神を取り上げた。

神がいなくとも物は見える、そこに物が存在しているとヒトは知る。神から思考を授けられない人は自身で存在の本質を認識する使命(自由)を負う。

3-4 レヴィストロース;

無神論者です。神を否定し存在から本質を外した。思想と存在の照らし合わせに本質が宿ると教える。犬は神に創造されたモノではない、うろつく犬にイヌの本質は宿らない。尻尾を巻いてワンと吠える四つ足ほ乳類は、ヒトが形成する「犬という思想」との関連にのみ存在する。思想と存在を結ぶ相互性(reciprocite)に本質がある。構造主義です。

 

哲学の底流とは神(いるかいないのか)と本質(探れるのか不可知か)の解明に尽きます。筆者なりの解釈で3-1~3-4に解説した。この基本を頭に残しかつPDF3葉を思い返し解読に取りかかれば、難文の「Histoire et dialectique」理解は母が子をあやすが如く簡単です(冷や汗タラ~リ)。

 

4歴史は思考か存在か   (PDF3葉を参考にしてください)

野生の思考第9章の冒頭を引用します。histoire歴史の意味とは。

dans quelle mesure une pensee, qui sait et qui veut etre a la fois anecdotique et geometrique, peut etre appelee diacletique?>La pensee sauvage, 9292頁)

拙訳:どうやったら「とある一つの思考」、それは「逸話的で地理的」なものなのにどうしたら、それを弁証法的と言えるのか?

上文は直訳で分かりにくい。語のそれぞれが意味するところから解読を進めよう;

mesureは計測、その器具です。「思考」を何らかの尺度にして計って弁証法的ってするとはどうする?レヴィストロースが問いかけている。思考はanecdotique et geometriqueでありたいのに。anecdotiqueとは逸話的。、aits curieux 変わった説明しにくい(辞書 robert)ともされる。すなわち突発で系列非依存となる、歴史的ではない。geometriqueは地域性だから地域限定性としよう。すると<une pensee一つの思考は系列に依存しないし地理的に限定されている。その事を思考は知っているし、そうありたいと願っている。そうした思考を何かの尺度をもって計測し、弁証法(歴史)的と呼ぶにはどうするのか>

後の分列でdialectiqueとは構成する(思考)であるとの定義が見える。構成するとは系列依存がある。するとdialectiqueとは(地理依存ではなく)経時的、系列依存で構成的となりそうだ。意訳すると;

「ぽつりと発生した一つの思考は、系列非依存でかつ地域限定の性質故に、個別で独立している。それが(上記とは正反の系列依存、非地域限定なる)弁証法(歴史)に替わる仕掛けはあり得るのか」と言えます。

冒頭にこの一文を置いた理由は9章全体がこの疑問を解くための論説と考える。

サルトルの考え方とこの疑問を対照すると;ぽつり発生するとある「自立、自律なる思考」はあり得ない。思考にしても行動も、歴史必然に収斂していく過程における現象なのだから、全てが「系列依存」「地域非依存」であるべき。この考え方はヘーゲル・マルクスの歴史弁証法によると推測する。するとサルトルの「弁証法的理性批判」は共産革命に向かうとするマルクス弁証法をなぞっているのかの疑念が湧いてでた。

カント主義者を自認するレヴィストロースが説く思考と、サルトルの弁証法はこの辺りの因果すなわち歴史性、依存性、進行性において対立している。そのように思える。本論文を読み解く鍵であろう。

続いて定冠詞付きla pensee「いわゆる思考と云うもの」に入る;

la pensee sauvage est totalisantnte; elle pretend aller plus beaucoup loin dans ce sens que Satre ne l’accorde a la raison dialectique, puisque celle-ci laisse fuir la serialite pure>( 292)

引用文を訳す前に;

キイとなるserialiteなる語は辞書に見あたらない。元の語となるはserialでこれを尋ねると;例としてシリーズ映画の一巻を指す。寅さんシリーズ「寅さん望郷柴又にむせぶ」はun serial de la serie Torasan(寅さんシリーズの1巻)といえる。それに=ite=の接尾語をサルトルが加えたから「連続して表出した総体の1の事象であること」となる。serialite pureとなれば、その事象が純粋であり他からの影響を受けないと捉える。「la pensee sauvage野生の思考」は逸話的であるとある思考une penseeの一形態であるが総括的(totalisante)である。すると;

訳;野生の思考は総括的であるし一の方向に進行している。進化工程はサルトルがそれを「弁証法理性」に紐つけて説明するより遙か遠方に至っている。なぜならそれ(弁証法理性)は純粋な連続性la serialite pure=なる仕組みを見逃しているから。

注:行外には「純粋ではない系列依存の思考を信奉する」サルトル、それ故に彼は見逃したと読める。するとサルトルが自著で語るserialiteは何らかの影響下の連続性であるのか、それがマルクス弁証法、歴史は必然に向かうと関連するのか。この辺りもこれからでて来そうだ。

さて、serialite pureなる内訳は;

dont nous venons de voir comment les systemes classificatoires reussissent a l’integrer et que par l’autre bout elle exclut le schematisme, ou ces memes systemes trouvent leur couronnement292頁).

訳;(野生の思考の)分類システムがいかにしてそれ(serialite pure)を取り込んでいるかを(本書の本文の中で)見てきたところである。さらには(サルトル流の)弁証法理性はもう一方で、この分類システムの賜と言える「図式化」を無視している。

本著1~7章は先住民の思考の有様を論じている。文中にこれらの言葉を解説する箇所がある;



1 分類システム:西欧のそれが分割し統合する合理的仕組み(水平垂直の座標位置が分類の思考。男女、老若、色分解、数量単位など)であるにくらべ、多く先住民は統合的分類を取る。写真(169頁を参照)

2  schematisme図式化。トーテムの機能、装飾品色、大小による個性識別をあげる。無文字文化ではあるが図式を活用した分別の機能は有文字文化の仕組みに劣らない。

サルトルはこうした先住民の知的能力に目をくれない。

すると「serialite pure」は系列依存、その通りだが、必然に向かう歴史(マルクス主義)とは異なるようだ。「pure=純粋」の意義がその点にかかると解釈する。

歴史発展が無いと彼が決めつけた野生の思考は総括(totalisation)判断が機能しているからdialectiqueでもある。しかし、サルトルが主張する(マルクス的な)「属性attributを変換、次の範疇(categorie)への止揚、止揚した後の新事象は前段階と断絶する」このような仕組みはない。故に未開部族はpureな弁証を実践している。その点をして「未熟な繰り返し」、歴史の必然(共産社会)には行き着かないとサルトルは決めつけた。そもそも歴史必然(共産化)など蜃気楼なのだから。

なおschematisme図式化はカント用語。これを未開人の分類法に当てはめている。

 

上記をまとめると;

未開思考の総括性=>serialite pure:系列依存性が純粋(属性が進展する)=>自律的弁証法

サルトルの弁証法理性=> serialite anti-pure(語は小筆レヴィストロースはconstituee出来上がったと伝える):系列依存であるが他力(属性の変質)が混入する=>必然(共産主義)に向かう以上が未開社会を畸形と表したサルトルへの批判です。(サルトル批判の提題その3の解)

さらに;

サルトル弁証法はマルクス歴史観である。

「歴史は一方向に収斂する」。もし歴史が発展し収斂する先を知るのであれば、歴史はモノetreとなる。木が天に向かい伸びると同じ仕組みだ。故に弁証法=モノと決めつける(サルトルは)これで間違いを犯している(=レヴィストロースはここまで言及していないが、彼は歴史=思想と考えるPDF3をご参照)

弁証法が歴史真理だと決めつけ、事象の因果の位置が弁証法的の発達段階に固定させられ、止揚作用を経験したあとに前段階と断絶する。この「歴史の(共産社会への)収斂は真理だ」かく(サルトルが)宣う。この言い分を敷延させ(サルトルは)目の先遠くにちらつく(と彼が空想する)歴史真理に、個として参列し行動を起こさなければならない(アンガジュマン)と脅迫まがいに訓令を垂れ、できない輩の本性は pratico-inerte(実践怠惰性) に蚕食されているのだ!などと難詰した。これは教条です。レヴィストロースの批判はこの教条に向けられる。「歴史はモノではない、思想である」とサルトル弁証法を否定する。

 

5 絶対神の弁証法

以下に引用する文節ではサルトル批判がより明確です。

l’auteur (Satre) hesite entre deux conceptions de la raison dialectique. Tantot il oppose la raison analytique et la raison dialectique comme l’erreur et la veritesinon meme comme le diable et le bon Dieu >(292)

訳(解説まじえ):Critique de la raison dialectique(弁証法理性批判=レヴィストロース批判の書)の著者サルトルは弁証法について2の定義をちらつかせるなど、戸惑いを見せている。分析理性との対比を語れば弁証法理性が「真実」であり、分析手法など比べるに値しない「誤り」としている。悪魔と神の対比まで比喩を昂進させている。

神と比定される真理ならば、(神には劣る)人による解説など必要ない。キリンが文子の美を語ると同じで聞く気は催さない。「歴史を統べる弁証法の神が歴史事実の全てを采配しているとかたづけて」批判を浴びたら「真理だ!」と言い返せば、言葉の一つで全ての説明がつく。信ずるは救われる。形容詞(bon=人に取って都合がよい、言い分を聞いてくれる)をつけた神が真理だ、レヴィストロース流の諧謔です。

分析思考の位置づけに戸惑いを覚えるサルトル。

les deux raisons apparaissent complementaires>292頁)訳;2の理論、弁証法と分析的理性は相互に補完的と見える。続けて、

outre que’elle(弁証法を真理とする解釈)...(中略)...aboutit meme a suggerer l’impossibilite d’une science biologique, elle recele un paradox ; car il (Sartre訳注) difinit, distingue, classe et oppose. Ce traite philosophique n’est pas d’autre nature que les ouvrages qu’il discuteet avec lesquels il engage le dialogue , meme si c’est pour le condamner>(293)

訳:(弁証法が真理とする考え方は)そもそもからして科学の知に不信の目を向けていて、生化学(一般の科学)の不能性を示唆するにいたる。そうした考え方自体が矛盾を隠匿しているのだ。なぜならサルトル著作弁証法的理性批判で開陳した「規定し分類しそして対立させる」手順について申せば、彼自らが規定し、分別し、分類し、対立を曝く。この過程とは彼が批判し有罪宣告している「分析的思考」その物ではないか。

まるで僕が神を規定するかの仕組みである。以上は提題2(弁証法が歴史必然)への反論です。

 

6歴史は思想

レヴィストロースに歴史とは何か、長くなるが一節を引用する;

Ce qui rend l’hisotoire possible, c’est qu’un sous-ensemble d’evenements se trouve, pour une periode donnee, avoir approxivement la meme signification pour un contingent d’individus qui n’ont pas necessairement vecu ces evenements, et qui peuvent meme les considerer a plusieurs ciecles de distance>(La pensee sauvage、第9 307)

訳:物事を歴史に至らしめる幾つかの事象がある時期に現れ、それらはおおよそ共通の意味を持ち、まとまりを持たないけれど(contingent)幾人かに共有される事から始まる。

「幾人」とはその場に生きた人々に限らず、幾世紀かの隔たりを超えてもそれらの出来事を考えられる人(その場に参画していない人も。歴史の認識とは参画engagementではない)。一連の出来事を実体とすれば、それを認識するのは思想である。歴史とは出来事と思想とのを対照である。構造主義の歴史観を表す。

さらに;

L’histoire biographique et anecdotique, qui est tout en bas de l’echelle, est une histoire faible, qui ne contient pas en elle-meme sa propre intelligibilite, laqulle lui vient seulement quand on la transporte en bloc au sein d’une histoire plus forte qu’elle; et celle-ci entretient le meme rapport avec une classe plus eleve.(311)

訳:伝記的、逸話的歴史はいわばハシゴの最下段、「弱い」歴史である。それ自体に解釈可能な特有性はない。弱い歴史をより強い歴史に組み込んで特有性を集体化することでのみ、解釈する意味合いが見えてくる。より強い歴史はさらにその上位の強い歴史と、同様にしての関連を持つ訳である。

伝記的とは出来事の発生を年代日付で記し、逸話的とは誰が何をしたのかの記述である。これだけでは「思想」を形成できないので「弱い」。それら出来事の関連づけで歴史は意味を掴める。歴史は思想であるとレヴィストロースの教え。歴史は弁証法、一定の目標に収斂する実体(あるいは神)であるとの教条を押しつける実存主義者歴史観に反論している。PDF3葉を再訪あれ。

 

余談;前引用に接しユーゴーLes miserablesの一節、18326月のパリ騒動を思い起こした。

アンジョルラスに率いられ、パリの学生と貧民層により組織され、ラマルク将軍の死亡前夜に暴動を謀議する秘密結社ABCは実在する。=中略=多くの者が斃れるのである<(Wikiからの引用) 銃弾に倒れる少年ガブロッシュ、身を投じ銃弾からマリウスを守った薄幸美少女エポニーヌ。ユーゴーは一連の流れを逸話として語る。創作であるとは知り、類する悲劇が語り継がれていたのだろうと願う。こうした物事の流れを歴史家の思考がより強い歴史に合体する仮定を経れば、共和派の王制への反乱史が浮かび上がる。大革命で勝ち取った自由民権への復帰であろう。読む者全てをロマンティシズムに感染させる。歴史を見据えるユーゴーの眼力と筆力であろう。

 

7 耽美派お飾り文章屋

Dans le vocabulaire de Sartre, nous nous definisons comme materialiste transcendantal et comme esthete.294頁)

拙訳;サルトルに言わせれば我々(レヴィストロースのこと)は「先験的唯物論者」であり「お飾り文章屋」である。

 

先験的唯物論とはサルトルの造語ながら奇妙な組み合わせである。先験とはカント用語、経験を通さずヒトは物事を理解する知力を持つ意であるから、唯物とは真逆である。思考に関する言葉を「物」の範疇に入れる。奇妙さのサルトル的裏を推察するに、レヴィストロースの構造主義を「人は構造に規定される」とサルトルが曲解したからであろう。世の中多くが構造主義とは「構造が本質」と納得し、またかように説明しているがこれは誤り。

その解釈は単なる「構造機能論」である。誤解を示唆する言い回しを文中(materialiste)に見てレヴィストロースは、「理解に至らない」感を強くしたに違いない。

拙投稿(部族民通信ホームサイト元年530日開設記念投稿、ジンジャンがカントに先験を教えた、Gooブログでは猿でも分かる構造主義20174月)に重ねて語るが、構造主義とは思想(ideologie)と存在(forme d’existance)を対峙させる相互性(reciprocite)に本質があるとする哲学主張である。文化人類学中根チエは「社会は構造化され人の思考はどの位置を占めるかに規定される」と構造を論じ、日本は「縦社会」なので上意下達の文化と決めつけた。ここで展開している思考は「論」である。「非情高崎山に曝かれた猿構造の真実」(谷川俊介著、絶版)は構造機能論の名著の誉れを恣にしている、猿版であるが残念じゃ。

レヴィストロースに戻すと、彼は構造主義者と自らを標榜した事実はない。哲学者にあれば御大は執筆し発表した文叢がすべて。解説やら注釈など言うなれば「攻略本」には一切、行句を連ねていない。敵対手の読み足りなさに気づくも誤謬を指摘し、論争の打ち切りに走らない理由は、この敵は己の勘違いを気づかずダンビラを振り回し、それを止める気配すら見せなかっただけ。「理解の程度はこの薄さか」materialiste transcendantalに留意を見せて誤りをほのめかした。

 

次に<comme esthete=お飾り文章>なる文言。

辞書を引くとestheteに哲学用語の意味合いはない。しいては「耽美、美観を気にしすぎる人」などの侮蔑をくむ。「お飾り文章屋」と訳す。

raison analytiqueの実行者をお飾り文章屋としたサルトルの理由は弁証法という歴史真理が存在するからには、ちょこまかした分析は「人をアリ(fourmis)として研究する程度でしかない」との悪口を(引用文の前段で)垂らしているからです。

レヴィストロースは「アリをバカにするのでないぞ、立派な社会組織を造っている」と軽くいなし反撃に移る;

Nous acceptons le qualificatif d’esthete, pour autant que nous croyaons que le but dernier des sciences humaines n’est pas de consitituer l’homme, mais de le  dissoudre.(294)

拙訳:(我々が)お飾り文章屋であるなる形容を認めよう。しかしながら、科学の最終目的は人を構築させるではなく人を分解する(=dissoudre分析する)との考えを変えはしないが。

「個を構築する」はサルトル実存主義の根本思想であり、その非科学性をレヴィストロースがほのめかしている。

cette attitude nous parrait etre celle de tout homme de science du moment qu’il est agnostiqueLa pensee sauvage 294頁) =後略

拙訳;この(シロアリに喩えるサルトルの)態度は、全く科学的人間なれど「不可知論者agnostique」となってしまった科学者の態度を思い起こさせる。

その人サルトルは科学者ながら不可知論を信奉するのか、不可知論者ながら己は科学的と勘違いしているのか?科学の人(homme de science)と不可知論者は両立する仕組みがない。この疑念を解く鍵は別の小論文にある。以下は(Le role du philosophe, le regard de Claude Levi-Strauss, 哲学の役割レヴィストロースの視点、Le magazine litterature dec/1985より引用)をクリック(たびたび紐つけクリックを入れておりますが)。

レヴィストロースは政治活動としてのアンガジュマンでも、辻褄の合わない共産主義傾倒でもなく、思考の根源にある実存主義を「反科学」としてサルトルの思考を否定している。弁証法への取り組み方にしても、そもそも謬りである実存主義との繋がりから、「非科学」として否定する。サルトルこそ不可知論者だと。

 

8 ペーパーナイフも弁証法も不可知

不可知論agnostiqueとは何か。robertにその義を求める。

Doctorine qui considere que l’absolut est inaccessible a notre connaissance.

絶対(l’absolut)は人の知では知り得ないとなります。この絶対を=神、神が創った諸々、宇宙の真理に置き換えて良いし、connaissanceCogitoと解釈しても間違いではない。もう一解釈<Doctorine selon laquelle la connaissance ne peut depasser les apparences sensibles(Dictionnaire de philosophie)見える形状以上の物を見知できる知見を人は持たない。いずれも人は本質など知りようがないとするdoctorine(教条)です。サルトルの実存主義とは人が経験を経て理性を確立するとするが、この理性は幅の狭いものと判断できる。

さらに、ネットの助けを得てサルトル不可知論者説を単純構図に展開すると;

実存主義は<普遍である本質を否定し、個別であり偶発の現実が優越であると主張する。経験できる現実を肯定し、それとの関わりをのみ考察する思想である。個人的経験、目に見える現実への解決を思索する。本質を積極的に認めない傾向があるため、即物的となり本質がみえなくなってしまう極端思想も生まれる土壌も育む>(Wikipedia実存主義サルトル項より引用、一部改編)。引用末尾の「本質がみえなくなってしまう極端思想」を必然にして導くのだから不可知論に至る。小室直樹流に語れば、デカルトに濫觴を得、カントをもって人口に膾炙するに至った哲学本流Cogitoをサルトルはぶちこわすのか。

さらに;本質がこの世にあるとすれば人が作成した物でない。経験に頼らない思考(先験)を持ちえない人はペーパーナイフすら本質に迫れない。ペーパーナイフを手にとって「紙を切るモノ」と本質を言い張る勇気を持てるか。紙切りに使うのは店員がそのように教えたからで、その彼にしても「本質からはずれた」便宜を喧伝したかもしれない。「いたずら猫を叩く」道具との疑いも残る。「存在を知りみずからの本質を編み出す自由に人は課せられている」とサルトルは教える。経験に基づく思考は、いかなる外部(存在)も個人の思考に還元するから、ペーパーナイフに限らずあらゆる事象についても、本質にたどり着かない畏れを抱える。筋道をかく立てれば不可知論に至る。

次なる疑問;人は弁証法を「手に取り目にする」事はできるが、本質が次段階へ止揚する(=サルトルの言い分)仕組みは個人経験で知覚できない。サルトルは分析的手法を取り入れpratico-inerte, totalisationinteriolisationなど精神活動を呼び込み、serialiteなる不気味な幻想を編み出し、遠きにかすむ弁証法真理なる仕組みを分析手法で解説し、歴史の本質である弁証法を証明せんと努力した。しかし真理を「経験できない」ヒトの一人のサルトルが、制限あるヒトの頭の「経験」なる分析手段を用いて、神と崇める弁証法を説明するのは誤りだ。弁証法を歴史の真理とし、歴史を弁証法の絡繰りに閉じこめるとは宗教であり、ヒトがその歴史に参画するは可能であると主張するは勘違いであり、両者ともに科学精神の放擲である。この「教条」をレヴィストロースが不可知論と形容した。(前述の提題12の解)

続いて含蓄深いルソー一文を引用する。

レヴィストロースのサルトル弁証法的理性批判第一部の了
 弁証法理性批判二部に