裸の男の最終頁 クリックで拡大、Rienが視認できる.
アカデミーフランセーズ(仏翰林院)に選ばれたのは1972年、神話学4巻を上梓してまもなくだった。会員正装の姿。定員40名生涯会員、欠員がでなければ選ばれもしない。
の男表紙 ポールデルヴォー画
最後の言葉は無、悲しき熱帯の最終章での「世界は人無しで始まった、彼無しで終わる」495頁
Lemonde a commence sans homme, et il s'achevera sans lui.
を思い起こします。




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 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年6月15日
 
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  裸の男 L'HommeNu フィナーレの最終頁 の最終節 (人類学 2020年6月15日投稿)
 
   

レヴィストロース著神話学第4巻「裸の男L’HommeNu」の最終章の章題は「Finaleフィナーレ」、音楽用語で終楽章となります。第一巻「LeCruetleCuit生と調理」の書き出し「Ouverture序曲」に対応している。435場の神話オペラは序曲に始まり終楽章で終わった。その総譜2000頁、レヴィストロース渾身の作曲だった。

この終楽章全82頁についてはホームサイト、ブログへの投稿でこれまでも紹介している。今回、その最終の621頁を紹介する。

 

書き出しは;

L’opposition fondamentale , generatrice de toutes les autres qui foisinnent dans les mythes et dont ces qutre tomes ont dresse l’inventaire , est celle meme qu’enonce Hamlet sous la forme d’une encore trop credule alternative.

Car entre l’etre et le non-etre , il n’appartient pas a l’homme de choisir.

訳;基本としての対立関係がまずある。それをして他の全ての対立を創造している。神話学4巻にそれらが盛り込まれているのだが、この基本対立とはハムレットがいみじくも、ある意味愚直に申し立てた2者択一と同じである。

なぜ(愚直)かとするは、存在すると存在しないについては人の選択にゆだねる物ではないからである。

 

文頭の「基本としての対立」、これを沙翁シェイクスピアはその名句「To be nor not to be, that is the question」(ハムレット)で表現した(本文には原文英語の引用は無い)。これはまた文脈の流れから前節(620頁)で説明した「夕日」とも対応している。

この辺りを考えてみると;

「夕日考coucher de soleil」では太陽の移り変わり様を、人間社会になぞらえると(レヴィストロース自身が)タネを明かした。燦々と輝く隆盛期から西に落ちて闇に閉ざされるまでを、人間社会(humanite)の移ろいとしたのだ。最後には宇宙から消え果てる社会と「to be or not to be」が示唆する「対立」重なる。それが森羅万象、全ての対立の源としている。

 

Hamletが独白する意味とは「対立しているそれらの一方を選択しようとする」。これが愚直(credule)だとレヴィストロースが決めつけた(語の直訳は信じやすい、naifと同義ですぐに信じてしまう幼稚さともつながるから、この訳を用いた)。選択に悩むは問題にすらならない。何故かと言えば人はそのいずれかを選択する能力を持たないから。

またHamletの言い方にenoncer(申し立てる)を填めているが、この語は「表明する中身については真偽不明」「言いたくないけれど」など言い述べる様だけを断定的と形容する動詞である。後に続くcreduleに対比している。どうもHamletの悩みは取り越し苦労、勘違いとしているようだ。

人が選択できない対立を夕日考が意味するところと重ね合わせて見よう。

 

まず「to be…」の解釈から始める。

小筆の生徒時代、名物英語教師は「生きるか死ぬか、それが問題だ」と訳した。小筆が英語を知らないとは昔からだけれど、今にして振り返り、理解できる範囲でこの訳はどうもピンとこない。Theは定冠詞である。すると問題にはいろいろあるけれど、これがそれらを代表するとの含蓄を匂わせるのである。塩シャケに卵焼き福神漬けの海苔弁当を「the弁当」と呼ぶ理屈につながる。

しかし何を食べるか、どこに旅するか、伴侶に誰を選ぶかなども「生き死に」に匹敵する選択の一つであるから、いちいちそれらにthe questionだとして定冠詞など付けない。「a question と不定冠詞を付けるはずだ。さらに「生き死に」なんぞは個人の範囲にとどまる、畢竟「死にたいけれど生きている」となる。沙翁ともあろうがこのような些事をかくも大仰に、主役に自問させるのか。

こうした疑念が湧いてきたのだろうか、英文学者小田島雄志は「このままでいいのか、いけないのかそれが問題」と訳した(ネット情報)。この解釈ではto beに普遍が若干宿るが、まだいくらかの候補があると読み取れる。このままの「何か」には生き様、地位、仕事、改革するか現状維持かなどが含まれる。するとこの解釈では冠詞無し、属性を形容詞的に強調する用法で、that is questionとしたい。

フランス語の冠詞用法を英語に当てはめるのは乱暴かも知れないが、英語のbe(仏語でetre)なる動詞には印欧語族に特殊な含蓄があるのだから「個人」の生死や「個人」の将来選択を越える、より普遍的な意味合いを沙翁も持たせたと理解したい。

 

レヴィストロースの解釈は明確である。

L’etreとしている。これは定冠詞を付けた名詞として使っているのだ。To bed’etre(生きること)ではなくl’etreを当てはめるがフランスでのハムレット解釈とすると名詞のetreとは;

「存在」である。本質(essence)に対立する(Robertから)。例えばL’etre et le nean(存在と無、サルトルの著作)。「個人が生きている」あるいは「このまま」などとの意味からは離れる。「存在するとはなにか」は哲学(ontologie、本体論)の主題である。デカルトの伝統を持つ彼の地では「生きるか死ぬか」ではなく「存在か….」と解釈しているのであろう。

レヴィストロースがもし日本語に訳したとしたら;

「そうした状況は本当にあるのか、頭の中だけなのか」となるだろう。

 

続いて

Un effort mental consubstantial a son histoire et qui ne cessera qu’avec son effacement de la scene de l’univers , lui impose d’assumer les deux evidences contradictoires dont le heurt met sa pensée en branle et , pour neutralizer leur opposition, engendre une serie illimitee d’autre distinction binaires…

 

突然出てきたun effort mental,これは一体何だ !

直訳すればある一つの精神的努力。しかしこれでは理解不能。mentalqui a rapport aux fonctions intellectuelles(Robertで第2)思考的とする。すると「一つの思考努力」となる。少しは分かり易くなった。これがその歴史と同質であるのだ、この句をさらに理解するに前節(未引用)のhumanite人間社会を引っ張り出す。前節では人間社会が自然(nature)の一部として発展もすると説かれていた。この考えを進めて、histoire humaniteとして、人類歴史のなかで数多くの人々の知性活動のおかげで科学、技術が発展していった。先人の数多くの努力の成果を怜悧に、あるいは一緒くたにしてun effort mentalと規定した(metonymie換喩として表現した)。

 

訳;(人類の)歴史とは思考努力の賜であり、それは宇宙歴史の一シーンでもある。一の思索努力が人間歴史を形成している、それは宇宙に対して必ず2の対立する状況を引き受けさせる。対立の衝撃により歴史思想は揺れ動き、この対立を中和させるため2元分別の事象が際限なく発生することになる。しかしいずれすべてはかき消される。

 

宇宙に対立を引き受けさせるとは書き方であって、人の思考活動(effort mental)が森羅万象を2元で見るとの言い回しの主客を転倒させた。この様態とは思想と形式の対峙でありこれをして構造主義となす、レヴィストロースの主張そのものです。そして彼の歴史観は「弁証法的理性批判」(サルトルへの反論、野生の思考の最終章)に詳しい。部族民通信ホームサイトでは731日に「弁証法的….」の表題で取り上げている。ここではサルトルの歴史観、すなわちマルクス歴史弁証法を批判して「歴史はモノではない、思想である」と述べている。それと同一線上にあると理解すれば納得がいく。

この一節でまさに彼は、構造主義による人類史観を要約した。

 

…sans jamais resoudre cette antinomie premiere , ne font, a des echelles de plus en plus reduites , que la reproduire et la perpetuer : realite de l’etre que l’homme eprouve au plus profond de lui-meme comme seule capable de donner la raison et sens a ses gestes quotidiens, a sa vie morale et sentimentale, a ses choix politiques a son engagement dans le monde social et naturel, a ses conquetes scientifiques ; mais en meme temps , realite de non etre....<

 

引用中の fontは動詞faire行う、成すの三人称複数形。主語は前引用の les deux evidences contradictoiresである。

 

訳;そもそもの矛盾(前の引用の2の対立状況)を解決せずに、スケールを縮小しながらも(対立を)再生産し、恒久的に育てる。すなわちそれが存在する(to beおよびl’etre)の実体であり、この実体は存在の奥底から、唯一の可能者として、日常の仕草や精神と感情に、また政治判断、社会野自然への参画、科学上の成果などに理由と意味づけをしている。

そしてnot to be, le non etreの世界とは....

 

注:to beの世界の実体。それが行動する、選択するなど覚知できる「形式」を上げ、それらに意味づけする能力がdeux evidences contradictoires 2の対立状況に潜むとした。

 

この語の意味するところを理解するに、もう一度構造主義の原点に戻る。

ソシュール言語学から着想を得たと膾炙されている。彼は意味論にて「意味する」「意味される」の2元論を展開した。イヌを例に取ると、言葉のイヌと実体のイヌがあり、言葉のイヌは「意味する」、実体のイヌが「意味される」となる。

言語学ではこの2分で十分であるが、レヴィストロースはこれを哲学として「形式」と「思想」に分けた。

イヌの思想とは人が頭に抱くイヌで、個体としてのイヌを形式のイヌとする。イヌを見た者は己の頭のイヌの思想に紐ずけしてそれをイヌと呼ぶ。イヌに限らずネコにも思想があり、社会、自由、信仰などにも思想が形式と対峙している。この対峙が構造主義である。イヌの思想を個体のイヌに紐付けする作業が思考であり、先験とカントが語る(2019831日にホームサイトに「自ら語る構造主義」にて解説した)

 

裸の男、最終章の最後の文節となります。長いのですが一気に;

mais en meme temps, realite du non-etre dont l’intuition accompagne indissolubement l’autre puisqu’il incombe a l’homme de vivre et lutter, penser et croire, garder surtout courage, sans que jamais quitte la certitude adverse, qu’il n’etais pas present autrefois sur la terre et qu’il ne le sera pas toujours, et qu’avec sa disparition ineluctable de la surface d’une planete elle aussi vouee a la mort, ses labeurs, ses peines, ses joies, ses espoirs et ses oeuvres deviendrons comme s’ils n’avaient pas existe, nulle conscience n’etant plus la pour preserver fut-ce le souvenir de ces mouvements ephemeres sauf, par quelque traits vite effaces d’un monde au visage desormais impassible, …(下に続く)

 

訳を試みる前にいくつかの用法を;

réalité du non-etreにはもう一つのrealite de l’etreともに冠詞がつきません。思弁的名詞には冠詞をつけない慣用です(on omet l’article parfois devant des noms exprimant une expression générale de l’esprit. 文法書Le bon usageより)。冠詞を省きrealiteなるを強調する効果をレヴィストロースは狙っている。

Il incombeの動詞incomberは三人称のみ用いるから、ilの主語はない。

qu’il n’était pas…queが続く、このqueは前のsans queと連携しかつpuisque(なぜなら)の省略形と解釈する(苦しい解釈ながら、この文脈のみ意味が通じるので)。またsans queの後には虚辞のneをつける場合と省く場合があり、省く言い回しが主流。本訳は虚辞があるかに試みる。

 

訳:次に存在しない現実を語ろう。それはもう一方(存在する現実)に、たとえそちら側の確実性が視界の果てに消え去らないとしても、人(存在しない現実に生きる)は生き、戦い、考え、信じ、勇気を保持したいのだから、直感としてもう一方に寄り添うのだ。人はかつて存在しなかったし、未来に消える。ある一つの天体からその大地がなくなってしまう時には、彼にしても死すべき運命だから、労働も、苦しみ、楽しみ、希望、仕事の成果もあたかもそんなものは存在しなかったと消え果てる。その時はもはや、カゲロウの如きそれら活動の記憶らしきをとどめるいかなる意識も(宇宙に)無い。人の足跡はそこに残るまもなくすぐに消し去られる。ただ以前(生存していた時)には覚知できなかったモノ….

 

…le constat abroge qu’ils eurent lieu c’est-a-dire rien.(裸の男621頁、最終行 ) 

そのモノは残る、かつて活動があったという「廃止公正証書」、すなわち「無」が残る。

 

存在しない現実とは人が持つ思想であり、それは存在する現実を確認し再構成しているだけ。存在する現実とは宇宙であり、存在し続けるが、人はいずれ死に果てる。人がかつてそこに住み活動していた証明は「rien無」である。了

 

最後に原文を通して載せる。

L’opposition fondamentale , generatrice de toutes les autres qui foisinnent dans les mythes et dont ces qutre tomes ont dresse l’inventaire , est celle meme qu’enonce Hamlet sous la forme d’une encore trop credule alternative.Car entre l’etre et le non-etre , il n’appartient pas a l’homme de choisir sans jamais resoudre cette antinomie premiere , ne font, a des echelles de plus en plus reduites , que la reproduire et la perpetuer : realite de l’etre que l’homme eprouve au plus profond de lui-meme comme seule capable de donner la raison et sens a ses gestes quotidiens, a sa vie morale et sentimentale, a ses choix politiques a son engagement dans le monde social et naturel, a ses conquetes scientifiques ; mais en meme temps , realite de non etre  mais en meme temps, realite du non-etre dont l’intuition accompagne indissolubement l’autre puisqu’il incombe a l’homme de vivre et lutter, penser et croire, garder surtout courage, sans que jamais quitte la certitude adverse, qu’il n’etais pas present autrefois sur la terre et qu’il ne le sera pas toujours, et qu’avec sa disparition ineluctable de la surface d’une planete elle aussi vouee a la mort, ses labeurs, ses peines, ses joies, ses espoirs et ses oeuvres deviendrons comme s’ils n’avaient pas existe, nulle conscience n’etant plus la pour preserver fut-ce le souvenir de ces mouvements ephemeres sauf, par quelque traits vite effaces d’un monde au visage desormais impassible,  le constat abroge qu’ils eurent lieu c’est-a-dire rien.(裸の男621)

 

 
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