レヴィストロースは哲学主題を語るときにのみ自身をnous(私たち)とします。何故かを考えるに、哲学では彼の主張(これを真の構造主義としている)に同意する人に問いかけている。他分野(神話学、人類学、民族学)では自身の立ち位置が学問宇宙の「特異点」にあると知るからnousは用いられない、と結論づけた。皆様にも「特異点」に立つと考えます。
蕃神

哲学に主題が入るとレヴィストロースは「je(私)もle philospphe哲学者」も用いずNous(私たち)とする。写真は野生の思考第9章(弁証法と歴史、サルトル批判)から。クリックで拡大

キセル考;
若い方はこの通行技法を知らない、まして実行は思いつかない。キセルは火受けと吸い口が金(カネ)、途中は竹で出来ている。乗り込み一区間と降車一区間だけの切符
(定期券)で払う乗車法式は、途中の長距離をタダで乗る裏技である。そして違法、窃盗罪である。昨今は首都はパスモにスイカ、大阪イコカ、愛知がマンナカと聞く。カードは乗車駅情報を記録しているか
ら悪徳ワザは不可能


フィナーレ考;

最後が長いと聴衆は疲れる。それ故になおさら、レヴィストロースは、読者意欲の減退など意に介せず、一気に書き上げたのか、文脈重なりのなめらかさと相変わらずの回りくどさ(修辞と書くべきだった)、行と句の連りの華麗、分節流れと筋の繋がりの平準が、含蓄の深みすら気付かせない巧妙文体で、その主張を密かながらに際だたせる。

行間に醸し出される文言の謎の説く、絶対の解を探す呻吟、文意を掴めぬ四苦八苦。取りかかるは60頁、不解とつまずき未来を思い浮かべ気おくれが生ずる


裸の男Finaleの表題頁、Hugo「アイスランドのハン」の冒頭部が引用されている。「全ての章には奇妙で神秘的な碑銘らしきが巻頭に置かれる...写真クリックで拡大
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年4月15日
 
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  神話学最終章 フィナーレ解説  1 人類学 2020年4月15日投稿  
   
Nousの用法について

レヴィストロース神話学第4巻「裸の男L’homme nu」の終りはFinale「フィナーレ終楽章」となる。第一巻「生と料理」において前文は楽曲に基づく命名「Ouverture序曲」とされ命名での対比を覚えるが、内容においても終は初と対応している。「序曲」では神話の形式、表現の特徴を解説している。筋立ての「3分節論」は音楽、言語とも共通する形式を踏む。人の表現の普遍性が神話にも認められる。

神話の汎人類性を伝えている訳で、これがレヴィストロース神話学の根底でもある。本4巻では新大陸に限定されるが、世界中の神話には「人が共有する精神」、民族部族の風習、歴史を乗り越える「神話の自律性」があると全4巻で主張している。

(神話学4巻の魁け「序曲」の解説は「生と調理」の1 クリックで飛ぶ)

 

「終楽章」が歌い上げる曲想とは;

 

神話学4巻締めくくりとして著者が渾身にまとめた60頁余(本書559~621頁)。

理論「構造神話学」と思想「構造主義」の文脈がその全頁を埋める。序曲に耳を傾け途中2000頁余をすっとばし、終楽章に立ち寄り主題メロディ変容の様と通奏低音の響きを耳にしたら、神話学全4巻の神髄を「キセル乗車」的に理解してしまう裏ワザもある。

(裏ワザ解説は右コラム)

 

Finale自体に目次がない、項目を付ける;

 

人称nousについての考察

ピアジェ(発達心理学)との論争

自ら語る構造主義、神話を構造主義で分析する

新大陸の神話伝播と民族移動の逆行性

神話伝播における逆転現象(inversement)

幾つかの批判への反論

批判の例:1巻で潤沢に用意されていた図式が、以降減少している

 哲学からの批判―など

悲しき熱帯の「夕日考」自らの解説

神話の自律性

4巻を閉じるにあたっての感慨

 

これら(上記)を一つずつ取り上げていこうと思う。「自ら語る構造主義」「神話伝播と民族移動」および「悲しき熱帯夕日考」の3項については過去Blog投稿、ホームサイト掲載しているので見直した上で簡単に紹介するつもりである。(なおフィナーレ考を右に)

 

さっそく始める。

人称「nous私達」についての考察;

 

Au long de ces pages, le nous dont l’auteur n’a pas voulu se departir n’etait pas seulement <<de modestie>>(本書559頁、以下同じ)。これら頁を通して作者はnous私達」の用法を捨て去るなどは望まなかったのだ。これを遣う意志を保っていた事は慎みのみではない。

 

注:nous遣いを排除するを望まなかった。こんな言い回しの裏には、それを排除し続けた実際がある。「nous私達」を用いるが適切かと疑う文脈であるから、排除を望まなかったのだが、結局はnousを排除していた。

しかし、とある条件でnousを排除しなかった。こう読みたい。

 

望まなかったn’a pas vouluは複合過去で一回のみの行為。しかしこの(長き4)全頁を通して=au long de ces pagesの意味合いには、それを反復していた事実があった筈である。ならば半過去(繰り返す過去の行為)ne voulait pasとするのが正しい訳だが、「とある条件」では望まなかった(nousを用いた)としている。そのとある条件が現在にも関連を持つ(複合過去の用法)、それ故に複合過去を用いたー複合過去の用法の一つには現在との繋がりがある。その用法の極端な例と理解した。

 

nousとするとある条件に小筆は思い当たる節がある。哲学の絡みである。己をle philosophe(哲学者)とは表現しなかった反照とも言える。その辺りは後述に。

 

 

Il traduisait aussi le souci plus profond de ramener le sujet a ce que , dans une telle entreprise, il devait essayer d’etre pour autant qu’il ne le soit pas toujours et partout : le lieu insubstantiel offert a une pensee anonyme afin qu’elle s’y deploie, prenne ses distances vis-a-vis d’elle meme , retouve et realise ses dispositions veritables et s’organise eu egard aux contraintes inherantes a sa seule nature.(本書559頁)

 

訳;(nousを用いる、その意は同意してくれと催促する。この「高慢」を避けた)より根深い不測性があるからと言い換えられる。その不測とは、これほどにも大きな作業(神話学4巻)だったからに、主体者(作者)をしてその場にいようと試みても、何時でも何処にでもいるとは限られない。実体性のない場が設けられ、それは名もない(他の作者)の思考であり、それを舞台にとりこみ、私なりの解析を展開するとして、その名もない思考の行き着く先の結論に斟酌しながら、その思考(本来はこうであるだろう)の正しい言い分を酌み取る場面もあるからである。

 

上の訳は回りくどい。意訳して;

いろいろと論を展開するに図らずも他者の見解を取り上げ、展開する時には、その進行中に私(レヴィストロース)の論点は不在となる。しかしながら、(私の思考)はその名も無き論を正しき言い分の再構築(realise ses disposition veritables)している。

 

引用の2文(Au long... Iltraduisait...)をまとめて解釈しよう。

 

4巻を通してnousは時たまにしか用いず、je(単数の私)に至っては一回も(要検証ですが、とりあえず)用いていない。「私」の替わりにl’auteur(作者), l’ethnologue(民族学者)時にl’anthropologue(人類学者)を遣う。また軽くceluiその者を入れる場合も。しかしle philosophe(哲学者)には出くわしていない(前述)。

生業を出してそれに付随する一般的な思考、思想を持つ者として、実はそれが私jeを言外に言い換えている。ここでjeを用いず、一歩退いた言い回しを取っている。

見落としはあるかも知れないが、あったらそれはレヴィストロースの書き落としだろう。

 

では一体、nousを用いるべき本来の状況とはどのような筋となろうか。

 

作者と読者の一体感を訴える場面が考えられる。しかしレヴィストロースは、そこに醸し出されるはずの一体感を信じていない。作者は問いかけるだけ、読者は自ら解答を探す。>Le bon savant ne donne que la question, jamais la reponse.正しき学者は質問を与える、しかし解答を用意しない(確か「悲しき熱帯」の一節)

 

彼の神話学にはl’auteur著者とles auditeurs読者をつなぐ「私達」の共感はあり得ない。別の意味では読者は自身の「勝手解釈」で読解する永久保証を受けたことになる。この図式は人類学、民族学などの分野でも現れている。単数「l’ethnologue民族学者とは」と述べるのだが、その学者は彼自身である。民族学、人類学においてもnous私達を安堵する語が出てこない。すなわち彼には同類はいない。

 

一方、le philospphe哲学者は用いない。自身を哲学者と規定していない(哲学の教授四角者なのだが)。文脈の中でそれが出てきたら対峙者、例えばサルトル批判で相手がそれサルトルと分かるような場合のみに遣っている。

 

文は続く;

 

S’il est une experience intime dont vingt annees vouees a l’etude des mythes -ces tomes n’embrassant que les huit dernieres- ont penetere celui qui ecrit ces lignes, elle reside en ceci que la consistance du moi, souci majeur de toute la philosophie occicentale, ne resiste pas a son application continu au meme objet qui l’envahit tout entier et l’impregne du sentiment vecu de son irrealite.

 

訳;20年に及ぶ神話研究が身に勝る経験であるとしたら、これら巻は8年を費やしたのだが、その内容は染みいるごとく著者の身に入り込んでいる。その研究成果はそこに宿るとして、長年西洋哲学を悩ませている「個の連続性」は同一目的の連綿とした研究の中では立ち回りが上手く行かない。なぜならそれ目的が研究を呑み込んで、非現実に生きる感情を植えつけてしまうから。

 

この訳も分かりにくい。というか訳している本人ですら理解不能、クセジュ文庫化してしまった。思い切って意訳する;

 

そもそも神話学なるは空論の非現実世界であるから、そこに20年、そのうち直近8年は神話学4巻に没頭していた。そこで「個の連続性」を考えると、果たしてそれが貫き通されただろうか。なぜなら彼(著者)自身が非現実に生き、そこに染みこんでいるのだから。

 

Ce peu de realite est celle d’une singularite, au sens que les astronomes donnent a ce terme :  le lieu d’un espace moment d’un temps relatif l’un par rapport a l’autre , ou se sont passes, se passeront a d’autres evenements non moins reels mais plus disperses, permet approxivement ecoules, actuel ou probables n’exsiste pas comme substrat, ...

この現実味を持たない事例は天文学者が言うところの「特異点」にあたる。それは宇宙にある特定の場で、ある相対的な時点でそこにあり、とある現象がそこで過ぎてしまったかこれから発生するか、非現実的ではなくそしてあちこちに散りばり...

 

立ち位置を「宇宙の特異点」に例えた。

ネット百科Wikiでは>一般解の点ではなく特異解の点のこと。ある基準 (regulation)を適用できない。一般的な手順では求まらない(singular)点である<

故に彼の立ち位置と視点は不動、この連続性は安堵されたのである。

新たな概念を切り開いた哲学を述べる書は常に「特異点」であろう。

この主張を敷延すれば世の多くの哲学書には特異点が存在する。レヴィストロースの神話学4巻は南北新大陸の神話を「構造主義」の視点から分析した前代未聞の作品である。神話学とは宗教学、あるいは民族学人類学の範疇に入るが、「構造主義」は哲学である。その「主義」なる立ち位置は後述にまかせ「主義=ideologie」の名にふさわしいまま、思考、形体、本質を説く哲学である。

するとレヴィストロースは構造主義の位置を哲学宇宙の特異点として、神話の検証に乗り出した。

ここで前訳文の

>解析を展開するとして、その名もない(他者から引用した)思考の行き着く先の結論に斟酌しながらも、その思考の(本来はこうであるだろうとの)正しい言い分を酌み取る<

意味が読み取れる。

 

例として;

 

序列数詞(nombre ordinaire)基本数詞(nombre cardinal)を説明したSaltzman氏(ネット百科では調べられず)を挙げる。彼は両数詞の特徴と機能を、西欧的見地から説明した。レヴィストロースはその説におおむね賛意を表すが、あらゆるケースでの正解ではないとした。例として極北民族の数え方は「6進法なので1~6の数えかたはSaltsman氏の定義に沿うが、7になると6+1となるところを、彼らは独自の位取りのやり方で6+2と数える」。数詞について解説する食事作法を読む続き2に飛ぶ。

 

この不規則を受けてレヴィストロースなりの解釈で2種の数詞論をさらに展開する。Saltzman氏の説を基本にするけれど、自説をそこに繰り込む。(食事作法の起源、277頁)

もう一例はフィンランド派の神話学の分析である。その派は歴史神話学ともされる。神話が語る登場要素(人、動物、モノなど)を特定し、神話群でそれらを「最も多く登場させる」神話が最古であると決めつける(同178頁)
歴史神話学はの解説は神話から物語へ2

この説を紹介するも、彼の神話論とは相容れない。登場物(protagonistes)とは特有の性格(proprietes)と結びついている。それを筋立てに登場させる理由は、筋道が訴える主題(theme)に懸かる。ここにも他説を取りだし、自身の解釈と重ね合わせる進行が読める。

 

レヴィストロースの神話学著作は「構造主義」による解析で「特異点」に位置づけられる。ここには読者も民族学者や人類学者にしてもnous私達として入り込む余地はない。

 

一方で哲学に関わるとnousが出現する。哲学は実用学ではない、真理を求める学であるから共感する者を前提としてnousを通した。

 

nous(私達)の用法を以上に、かく解釈した。続く

 
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