本稿を投稿した渡来部須万男。体調すぐれず、「イザ」の用意に身の回り整理を始めたところ、50年前留学した各種書類が出てきた。併せていろいろな思い出が頭に巡ったとか。
1968年5月、パリでの学生騒動の一コマ。中央メガフォンの男が学生リーダーDanielCohnbandit
レヴィストロース、フランス学院(College de France)での公開講座風景



上の写真と同時期と思われる。原画をみるとAishishi(イシス)が黒板に読める。HommeNu(裸の男)のヒーローであるから出版1970年か、それ以降となる。
渡来部が報告した講座風景は1968年11月、その描写と変わるところがない。背広上下、ネクタイ、黒縁眼鏡も、白髪まで同じと覗える。クリックで拡大





今の階段教室、公開講座。1968年当時より広い、天井も高いとの印象を受ける。
写真はネット採取、
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年2 15日
 
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渡来部 須磨男
   留学事情 50年前 レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 4
  (読み物) 渡来部 投稿 2020年2 月15日
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  部族民通信の創始、渡来部須万男の投稿を続ける。

19681123日の日曜日、11時、快晴。晩秋の空の青さに染まるパリ、道も広場も街路樹も光と影に透き通っていた。一人のアジア系若者がカセット通り10番地に降り立った。風が一陣吹き抜け若者は冷たさに襟を立てた。再開されたレヴィストロースの公開講座に出席するを目的にフランス学院(College de France)に急ぐ。

市民の参加を促す公開講座ながら大学の学期と連動するので、10月早々からの開講が期待された。しかし11月の遅くまで待つ事になった。前の期にしても7月末まで開かれるのが通例の筈だったが、突然に4月、中断する通告がぴったりと閉ざされた教室戸板に張られた。早すぎた打ち切り、遅い再開。原因は言わずと知れたその年5月の学生騒動である。

半年が過ぎて再開を待ち望む市民面々は胸をなで下ろした。道端の出会いでそれを私にものフト告げたPouillonにもよろこびが聞こえた。

学院の公開講座は教授(chaire)の義務であると前回述べた。

基準としては月に2回、時間は90分。希望者には登録、記帳、個人証明の提示など義務と制限が一切なし。まして講座料を取るなどケチの臭さは、彼の地フランスでは発想にも浮かばない。
本邦
令和にして流行っていると聞く市民講座との差異はここに。

こうした「公開」、あるいは多数を対象とする講演は典型的に「フランススタイル」が徹底する。進め方は学部の大教室講座と同様である。
講師は口頭で説明に徹する。ひたすら語る、ズーットその語りを続ける。90分の間、時のは120分も設けられるが、1秒たりとも息を止めない。分かり難い箇所があろうと聞き手の反応が渋かろうとも、ひたすら「口演」を進める。繰り返しに間の手を挟んだり、込み入ったら噛みくだいて言い換えるや、ついでに解説を披露するなどが一切考慮されていない。理解の弱者への手助けなどは絶対に設けられない。資料の配布もない。
「口演」を理解出来ない者は能力が足りないのだ。

伝える側と聞く者との真剣勝負、フランス式講座である。

(こんな講座を体験したい方は日仏会館(東京恵比寿)の公開講座に足を運ぶをお薦めする。無料、資料なし、予約と記帳はいまの世情なので必要。フランス式が何とか分かる)

レヴィストロースは日曜の午前を講座時間に選んだ。

日曜なら多く市民が時間を取れる、彼にしてもその時間帯には他の用件も特にはなかろう。これが理由として思い浮かぶ。一方で彼はユダヤ系を父母にもち「無神論者athe」である。日曜午前に教会に参列する習慣を生来、持たない。聴衆者にnon-pratiquant(日曜に教会に通わない)を無言で求めている。

 

さて、冒頭で襟を立てた若者は

カセット通りをリュクサンブールに下り、ヴォジラールに当たったら左折し、サンミシュエルに向かう。それを越えてエコル通りに出たらソルボンヌを目指す。学院はその隣。その辺りは通い慣れての道のりはおおよそ15分、予定時間に違わず到着。

開始10分前に教室に入った。床は広く天井が高い、収容数は幾百席か、学術講演では相当に大型、ほぼ満席、すると200人をあえて越すほどが集まるのか。人々の立ち声と息切れに驚いた。

階段教室、
もっとも低い中央には横長の演壇がしつらえてある。大きな演卓と椅子が一脚ぽつんと置かれ、後ろには長い黒板。手書きでClaude Levi-Strauss, Seance a partir 11 :0011時からの講演が読めた。

 

1の列の椅子数は20ほどか、左右の端が3~4席が扇に閉じる。それら列が演壇に対し勾配を上方にとる。近くでの水準は演壇と同等なるも、演壇から離れるほど列は高くなるので、遠くとなれば見下ろせる。2の通路が左右に椅子列を二股に分断する。この通路が階段をなすが故に階段教室(amphitheatre)と呼ばれる。

 

市民が集まっている。

 

私(渡来部)は後方の左奥の一席を探り当て、くぐり入って座り込む。その前ざっと教室を見渡した。

聴衆の年齢は30代後半から50代前半が過半と見えた。

民間も官界でも仕事場で指導的立場を占める層であ。真っ直ぐに立つ姿勢は、彼らの自信を見せている。仕草にも手振りのにぎやかさは、こうした男共の存在理由である。その服装はきらびやかさを排し、この特別な時間、日曜午前のしきたりに身だしなみの確かさを決めている。
2列前の男、厚地ツィード上着にその下は色も濃い、紺か紫のシャツにリヨン絹のスカーフ。こんな装備ならば今の季節、冬のとば口で風は冷たいけれどメトロ(地下鉄)移動に徹すれば、外套重ね着のヤボから逃れる。外套なしがシックである、パリ的に。そのツィードと立ち話しの男は頸にスカーフを暖かく巻く、その生地は色ツヤからアルパカか。腕に抱えるバーバリーはシングル、タンス出し卸しだろう、くたびれ塩梅ながら洗いざらしの地の青の照りが映えて小粋。

 

女は年齢も服も色もとりどり、
一方で色と色の組み合わせの有方に何やらの基準、暗黙の統一性が窺えた。配色を探れば、くすみである。

当時のパリ界隈、
皮側を表にしたムートンコートが流行っていた。長い毛の側が厚い裏地となる。それなら下のブラウス、スカートは薄手でも北風をしのげる。ムートン皮を羽織った女が通路に止まった。コートを脱いで無造作に椅子にそれを預けた薄着女の格好はいかに。薄地ウールがボディコンシャス。色は強い灰、表にうっすらとビアズリー模様が乗る。身体露出などはしたないから、裸体の灰色を見せつけた。座ってすぐにひょいと立ち上がり3列前に、知り合いであろうか、手を小さく振った。向こうも同じ歳の格好、ベージュ無地のダブルの上着のコートなし、振り返り立ち上がったスカートはタイトの無地の濃い臙脂。

私(渡来部)の右に若い女性が席を取った。学生らしいは化粧の薄さ。

厚手のセーター、ざっくりの織りは黒にも近い濃い青、胸前に大きなインコのアプリケ。栗色(chateigne、ブロンドより濃い)の長い髪を後ろ手で探り、うなじから添えあげて一振りにふるい落とした。視線の流しを見下ろし加減に私に見せつけた。こんな目つきを秋波と勘違いしてはならぬ。身体表現において胸部、さらに臀部で際だつ若い女、歳のころは22、23か、決まり切った日常の動作である。私って綺麗でしょ。

人々の教室での行動とは、

一旦、席を決めて見渡して、知り合いが認めて手を振れば相手に悟られた。そちらに歩いて立ち止りボンジュール、あるいは
mon vieux ca va ?の挨拶。そして握手、女同士あるいは男と女なら頬ずりをかわす。頬を重ねるからと親密な間ではない、普段の挨拶の一形態である。会話に入って二言三言を交わすけれど、別にたいした話題ではない。「ミッシェルが死んじゃった」「ミッシェルて誰」「ネコ」それでも、立ち話に花が咲いているから、教室は雑談の坩堝に化した。

席を移動して話し込むなどの配慮は絶対に起こりえない。別にやって来て己の席を誰からも離れて取る。誰かがどこかに来ていると認めたら、近寄って立ち話するだけ。席は共にしないが決まりである。

私も幾人かの同期と手を振り位置確認しただけ。

 

「日曜の午前」なりの服装と前に申した。その趣旨とは派手さを抑え、それなりの物で着こしめす。この服装の統一性には日曜ミサのしきたりが色濃く残こるかと感じた。

伽藍に向かう代わりに学院、聖堂を階段教室に乗り替え、祭壇を剥がして黒板に張り替え、耶蘇司祭を追い出してレヴィストロースを置いた。するとスノッブ(通人、あるいは流行おっかけ)の礼拝が始まろうとしているのか。

 

時計の針が11時、始まりを刻んだ。 

(なお、今、フランス学院のHPを覗くと公開講座は「教授」のみならず、多くの研究者が開いている。土日には講座は開かれないようだ。制度が変わっている)

 

演壇裏の通路からコツコツ、靴の音が聞こえ始めは微か、すぐに大きく、急ぎ足を響かせた。ドアが開いて男が肩口からのりこむかに入った。痩身、腕の手先には一帳のノート、頸がひょいと長くその上の顔は、コケ皺の一条が刻む薄い頬、鷲鼻がその真ん中にしっかり座る。若い頃の写真で髪は黒。しかし登場した男の頭に白い髪、生え際が後退しているから、もとの広い額をさらに広くしていた。紺の上下にネクタイ。生地にやつれが見える。着する様は羽織るかにゆったり、着古したその分、着易いと覗える。肩口から前身頃は、着ずれの皺を浮かばせず、素直に垂れている。上着と同系、でもより濃い色のネクタイが頸もとを緩く占める。

 

演卓に歩みを速め立ち止まった。

ノートを卓に置き頁を開いて、黒縁眼鏡をすこしズリ上げて、席列に待ち並ぶ聴衆に目を向けた。彼はクロード・レヴィストロースであった。写真で見慣れた風貌まさにそのもの、その姿は彼自身であった。

演壇の男が、百人を越す聴衆に対峙し、無表情に視線を巡らせた。

構造主義の旗手。言語学意味論を換骨奪胎し意味なる構造の主客を逆転し、現象論を無味乾燥の無神論に刷り替えて、弁証法論争でサルトルを打ちのめした理念の超人。神にも近い哲人が立ち話す瞬間を今、目の前にする。

その筈だ。

しかし、張りつめた気がすーっと風の通りのように、私から抜けた。

背広上下にネクタイの痩せた長身の男、少しは剽悍さが見えるけれど、演壇の彼は一人の市民ではないか。

気落ちである。沈思してしばらく、そして、

tapis rougeレッドカーペットを敷き詰め、登場に合わせファンファーレでも流したらよかったのか。哲人といえども背にオーラが生えてはいない、バラの花弁が散らばる石楠花の小径を踏みしめる毎日ではない。風体とか身なりでそこいら市民と変わるところがあるものか。痩せぎす背の高い一人の眼鏡の男。彼にはそれで十分ではないかと思い直した。

「初老男がレヴィストロースを演じているのではない、レヴィストロースが彼を演じているのだ」気を取り戻した。

 

Messieurs, dames et mesdemoiselles. Bonjours a tous.紳士淑女、お嬢さんの皆さんによい日よりを>

damesmesdemoi...の間に一息おいた。damesで終わってお嬢さんを外しても欠礼ではない。聴衆に未婚女性が混じると気付いたのでmesdmoi... お嬢さんを追加したのだろう。顔見知りかも知れない。

さっそく演題に入った。

彼の口からは演題について「それが何か、素材は、主題は、展開、筋立ては...」これらの一切を語らない。すぐに本題に入った。

 さて、

196811月のレヴィストロース作品の刊行の状況をさらうと;

神話学の第三巻「食事作法の起源」を19687月に出版している。部数は9495冊。

それ以前は;第一巻生と調理(Le Cru et le cuit)の出版が1964年末、8979部を印刷して評判は高かった。第二巻蜜から灰へ(Du Miel aux Cendres)は1967年初に出版。部数は増えて9271

19684月までの講演は(おそらく)「蜜から灰へ」であったろう。7月出版の「食事...」を11月に取り上げたのは自然な流れである。

しかしここで私(渡来部)の記憶が不確かになる。

「食事...」はモンマネキの冒険から始まる。この神話M354が本書の基準とされるので、ここから講演を始める筈だが、その時聞いたのは「バイソン婦人」(M465北米Hidatsa族)に思えてならない。この神話は「食事...]の第二部、BalanceEgale(つじつま合わせ)の基準となり、含蓄深いモノだが筋は単純。
小男、実は太陽神が村人に賭をしかけ彼が大勝ちし、村の所有する武器を全て取り上げた。バイソン婦人が「あの男は太陽神、手下部族が攻めに来る、男は殺され女は奴隷に貶められる。防ぐには
...」村人に入れ知恵し、何とか守りきった。神話紹介の段は分ったが、続く後が「全く分からない」。初めての講演にして、聞いているだけの状況。人が語る内容に全く理解が及ばない、不満やる方ないに陥った。

数年後に、同書を購入し読み進めて、というか辞書を首っ引きにして、幾度も挫折して頁を開けたままにして、(自分なりの)理解に至った。

前知識なしに<le nombre ordinal et le cardinal, la somme arithmetique assure la meditation , puisqu’elle permet aux nombres de parraitre l’un apres l’autre......>

こんなチンぷんかんぷん文句の綴れ織りを口演で一回聞いても、私(渡来部)は分かりません。ラテン語講義に紛れ込んだかの錯覚さえ覚えた。聴衆のフランス人100人は高学歴だから、きっと分かっているのでしょう

続く


 
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