渡来部は部族民通信創始者であるも、健康に優れず出稿がこのところなかった。写真は「中尉」だが、似ている(本人)ので使っている。
Pouillonは実存主義と構造主義の融和を計った。叶わなかった根源には両の哲学が互いをはじきあう本来的な違和か、自身の健康にあったのか。
渡来部が知るPouillonはこの優しい表情です。
このスナップショットは世に広く知れる。サルトルが見上げる男がジャン・プイヨンである。かく述べる私(渡来部)もそれと知ったのは本稿を書く手順の隙間だった。背景にくすむはアンバリッドなのでアレクサンドルiIII世橋の上、撮影はカルチエ・ブレッソン。
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年1月31日
 
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渡来部 須磨男
   留学事情 50年前 レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 3
  (読み物) 渡来部 投稿 2020年1月31日 
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  部族民通信の創始、渡来部須万男の投稿です。

渡来部の投稿を続ける。

11月に入り講座(cours)、ゼミ(travaux diriges)のすべてが開講した。

それまでは学部に入れるのか、授業で己の席を見つけられるのか、講義の内容について行けるのかなど心配を抱えていた。しかし一番真剣な不安事とは学部の学籍証を持つか持たないか、いわば学生仲間ながらの身分差であった。それを持たないとマビヨンなどとびきり安い学生食堂で昼と晩の飯を食べられない。街中の食堂ではすこぶる高い。ならば、昼にパンをむしり夜にはマギーなる薄いスープなどをすする悲惨状態に陥るのか、怖れた。それら不安が解消し授業も内容も別段、難しいわけではないから落ち着を取り戻し、ひたすら学業にいそしむ心構えを感じられるまでに至った。

 

落ち着けば頃は晩秋、乾いた風が吹いてマロニエはもう紅葉、散った落ち葉は冷たく舞う。

 

さて、私(渡来部)が潜り込んだ下宿はカセット通り(rue cassette10番地、サンシュルピス聖堂の近辺でサンジェルマン、リュクサンブールにも接す。俗に言うラテン区(カルチエラタン)の一角。

 

土曜日(11月第2土曜日かと思いかえす。その年では15日であろう)昼下がり、学生食堂は開いてないから行きつけのカフェ(cafe de cassette)で軽い昼食(saucisses fritesソーセージに揚げジャガイモ)にun ballon rouge (赤ワイン1グラス)。なぜ50年前のある日に食った昼食の皿の中身まで書けるかというと、それを食ったとの記憶を持つのではない。学生食堂以外で昼を食うとする学生は、こんなモノしか食えなかった。それで8フランほどか(560円)。50年前だからそれなりに高い。

赤ワインの一酌(80サンチーム)は水より安いから飯のおまけでいつも飲んでいた。

生活現実は忘れにくい、これが実際であるのか。

 

さて友人は下宿に戻り私はサンジェルマンに向かう。サンシュルピス広場で前方から来る大柄な男には見覚えがある。相手も私を認めたらしく、通り過ぎずに足を止めた。

Bon jour, comment ca va」なんて常套句で挨拶した相手はJean Pouillonだった。

恰幅が良く背丈は見上げるほど。黒のオーバーコートに赤と茶の絹スカーフを首に巻いていた。手はポケットに。真冬にはまだ遠いけれど厚着であった。

 

Jean Pouillon(ジャンプイヨン)とは誰か。

哲学の教育を受けサルトルの朋友、のちに民族学、人類学に関心を寄せアフリカで現地調査を指揮した。人類学の雑誌L’Homme(人間、レヴィストロースが1961年に開設)の編集長を創刊(1961)以来35年勤めた。

 

彼の業績はネット検索で調べても全容は掴めない。サルトルが主唱する「知識人なるは社会参画を義務として持つ=アンガジュマン」に協賛していた(ようだ)。ニュルンベルグ裁判を批判、アルジェリア独立を支持でそれと窺える。では哲学では実存主義を信奉するのか。するとレヴィストロースのカント主義とは相容れない。民族学に傾倒し、チャド先住民の宗教を調査した(とネット情報)に接するも、その著作が見えない。

足跡としてレヴィストロースの神話学第3巻「Origine des manières de table食事作法の起源」の前書きで「Jean Pouillon氏がまとめた1963~64の講義録(College de Franceでの)無しには本書(食事作法…)の刊行は大いに後れた」の謝辞が読める。(14)

 

3巻のみならず、1巻から資料解析の手伝い、助言で大いにレヴィストロース著作の刊行に貢献した、とは高等学院の学生の語り話。それ故、社会学系の学生には尊敬されていた。

実際、

Ecole Pratique des Hautes Etudes(実践高等学院)の社会人類学課程で教授レヴィストロースに次ぐ主幹として講義内容、講師の人選を執り仕切っていた。私たち1年生(stagiaire)の講座を受け持つことはなかったが、学期の開始に当たっての対話(colloque)には出席、多く発言していた(レヴィストロースはこうした人に説く、そして融和の活動はしないだろうなと感じている)。
アフリカで実地調査を敢行するには、アフリカ学の重鎮バランディエに予算だとか人員で「渡り」を付けたはずだ(この辺り日本土着の感覚だが許せ)。
となると、

哲学でサルトルに薫陶を得て、人類学ではレヴィストロースを助け、実地調査にてバランディエの門を叩く。

上の3の人物は思想と実学で互い相容れない。

レヴィストロースはサルトルに「非科学、非理性」と辛辣な批判を繰り返した。「意識」を調べるレヴィストロースにたいし、バランディエは族民の文化を「物」を見てこれを重要とした。これらの異質の思想がPouillonの中では渾然一体に融合し、混遊のマグマとばけて思想地平のどこかに噴き上がったかも知れない。
L’homme1997143巻の「歴史」がそれらしいが手に入らない。

人として形容すれば彼には「包容力がある」「人物が出来ている」と収斂する。

 

人物なりに出来ている御仁がbon jou…挨拶を経て、巨漢ならば見下ろしながら私(渡来部)に、

Est-ce-que vous etes au courant? Claude va retenir au college le cours au publique.

>君はクロードが学校で公衆むけ講座を再開するがそれを知るか<

私の答えは「どこのクロード?」

 

バカ内容で返答するのが私(渡来部)の習慣なのだが、ここでの加減はそれまで過去21年のバカ返答の経緯でもっともマヌケの濃さに輝いた、なんとも悲しいそれなりの瞬間だった。

 

Pouillonが伝えたクロードとは、レヴィストロースに決まっている。Collegeとはフランス学院である。公衆向けとは彼の公開講座、誰でも飛び込んで高邁なる説を無料で聞ける講座である。

Pouillon氏は写真(右コラム)を見ても分かる通り、人物が出来ている。私のマヌケさにたじろいだとしても、いささかにも蔑み目つきなど素振りを顕わにせずに「クロードはレヴィストロース」と明かした上で「次の日曜の11時から学院の階段教室」と告げてrue madameに急ぎ足でさっさと向かった。

 

レヴィストロースはフランス学院College de FranceChaireである。その意はprofesseur教授に他ならないが、数の限定と付随する予算の潤沢さへの敬意をこめて「席」を用いる。席に座る教授には義務が課される。公開講座を持ち己の説、成果を市民に直接語りかけるべしと。

その公開講座が再開されると教えてくれた。続く

 


 

 

 
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