渡来部は部族民通信創始者であるも、健康に優れず出稿がこのところなかった。写真は「中尉」だが、似ている(本人)ので使っている。
ルロワグーラン教授の主著、[le geste et la parole]の表紙。本サイトで取り上げている、画像をクリック
ソルボンヌ実践高等学院の学生証


こちらはソルボンヌ学部生の証
ルロワグーラン教授、若かりし日アイヌ調査、北海道での一景
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年1月31日
 
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渡来部 須磨男
   留学事情 50年前 レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 2
  (読み物) 渡来部 投稿 2020年1月31日 
 (留学事情...1  2  3  4  5 に飛ぶ。それぞれをクリック)
  
 
  渡来部須万男の投稿です。

試験官から事務所の案内を受け、その足で駆けつけて無事、パリ大学第一文学部(ソルボンヌ=68年当時は公布される文書にもSorbonneの呼称が使われていた)、その内のEcole pratique des hautes études(実践高等学院), 課程はanthropologie sociale(社会人類学課程)に潜り込めた。学期の始まりは10月であるも講義が開始するのはその月もかなり遅くになってから。その間に学生と教官の対話colloqueに参加した。学制と評価、ここの講座がどの様に資格(licenciedoctorat)につながるのか、仕組みの質疑だった。旧制度も新制度も知らない私にはちんぷんかんぷん。ただ「学生が教官を評価する」ある学生からの提案には教官がきつくNonと答えた。このやり取りが印象的だった。

 

講座(cours)とゼミ(travaux diriges)を選べ、私(渡来部)は極北民族(イヌイット、当時はエスキモー)とアフリカ(ドゴン族など)の講座を選び、ゼミにおいては音韻学を選んだ。講義内容に関してはいずれ語る機会があるだろう。本題、対話にはいる。

 

11月に入ってすべてが開講。金曜のゼミが終わって学生の皆が散らばる前に友人から、

「明日、発掘現場に行くけれど、来ないか」誘われた。

こういう時には即座に絶対に、前向きのd’accordを返さないと、あとあと誘いが来ない。とっておきの「vachement oui」と返事した。(vachementとは「雌牛的」なる意味、学生俗語(雌牛はマヌケだから)無批判に、絶対信頼しての意味で使っていた)

 

翌日の朝、しめし合わせた広場で待つと時間に遅れることしばし、前方からかなりくたびれた2CV(ドゥーシュヴォー、直訳すると2馬力車、シトロエンの大衆車)が独特エンジン音をバタバタと響かせ、目の前にプスーで止まった。同じクラスの顔見知りが前に2人、もう一人が後ろの左。後ろ右に座るのは見知らぬ女性、姿と格好から学生と知れる。

紹介してくれた名はジュヌビエーブだった。

運転者も含め身振りと手振りの会話が始まった。フランス人は運転者といえど車中の会話に積極参加する。時に後部に振り返っては自説を手振りで強弁する。上下3車線の不気味な街道がある。真ん中の車線は追い越し線で、これは右車線でも左でも、追い越しに乗り込める。こちらが追い越そうと真ん中に入ったら、対抗車線の車が入ってきた。不測の事態は正面衝突が結果です。彼はその真ん中車線に入っている時だって、果敢に振り返る。それでも事故を起こさないとは見上げた腕前だ。

今でもこうした3車線はあるのだろうか。

 

車中の会話は出始めが2CVについての性能。

「エンジンは非力だが、車体が軽い分走りは軽快。5人乗ってもしっかり走る」

私は5人目になって後ろの中央が席。後部シートは鉄パイプの枠にキャンパス張り。中央に強度を取るため鉄の棒が渡される。中央に座る者のお尻に、揺れる度に当たる。

XXはこれでモスクワ学会まで皆と行ったと自慢していた」XXとは講座を受け持つ若手の講師。

「何人が乗り込んだのかい」私の問い。

4人と聞いている」

Bonne chance pour le quatrième monsieur」(4番目の人はラッキーだったね)

Pourquoi ?」(何故)

il a pas eu le probleme au derrière(お尻が痛くなかったから)

皆が大笑い。

右手のジュヌビエーブが何かをつぶやいた。これが何とも分からない。「旅程はモスクワよりも長くはない」程度の軽い内容の筈だが、どうもこれを「痛みの限界点を超さない未来の筈だから、お前にも神の祝福なる幸運はいずれ訪れよう」なんて言っているみたいだ。

こうした言い方をして名詞文節とするが、勿体ぶった言い回しこの上ない。彼女にはそれからも度々会う。私とし会話をそれなりに上達しても、それを凌ぐ勿体ぶりの増進について行けず、結局何も彼女からは聞き取れなかった。

 

痛み限界の前に着くと慰められた地点はモー市、パリ近郊になるので一時間はかからない。現場はマルヌ川の段丘。到着して飛び出すかのごとく車を離れ、渡し棒鉄のせめぎから逃げられた。

見学して一通りの説明を受け、昼食となった。仮設の大テーブルに白のクロス、各自が指定場に座る。教授を迎える日の特別午餐が開かれた。そして席分け、何故か中央右脇の席をあてがわれた。ルロワグーラン教授が鎮座する席の左であった。

これは後々、思うに仕組まれた席だった。教授とは偉いけれど煙ったい存在で、近づけば構えなければならない。その横なる席など敬遠される。日本人ならどうでもよかろうとの逆の配慮が働いたとのだ。同行の4人は仲間内に座って、わいわい楽しげ。

皿は配膳されてもナイフがなかった。ボーイに告げようと手を上げた矢先に、教授が

「これを使え」と手前のナイフをずらした。自身にはオピネル(ナイフのブランド)をポケットから取り出し皿の横に置いた。研ぎ澄まされた刃先の光を見るに、かなりの以前から使い込んだ愛着品と思えた。

 

暖かい料理が各自の皿に盛りつけられて、パンは回しの配り、必要分をぐいとちぎって手元に置く。幾人かが食を供にする、こんな卓には必ずワインが供される。この国の午餐の習慣である。銘の張られないボトル、樽買いテーブルワインの小分けの赤が23人を目安に立ち並んでいた。<Bon appétit a tous>は教授から「さあ、いただきましょう」の合図。めいめい隣り合う席での会話に花が咲く。私だって「何かの切り口を開かねば」焦った。

相手は先史学、民族歴史学の大教授である。下手な挨拶話でおわらせたら拙い、ニッポン男児の恥さらしだ。避けるには何の話題が正しいか、探るに付け「こりゃあいいわ」をフト思いついた。

 

「教授様、ある興味深い歴史話題をご説明する幾ばくかの分数をお許しください」

 

相手は大教授なんだし、こっちは初対面の遠くは極東、異国の小国(当時の国際地位です)からの学部生だから、これくらいの言い回しはしないとな。

その語を再現すると;

Mon professeurmonsieur LeRoiGourhan, je demanderais la permission de vous prendre deux ou trois minutes qui expliqueraient une histoire anecdotique, mais assez interessante, concernant la fondation nationale du Japon, d’il y a deux milles ans…>

 

こんなにも、つたない言い回しが申し出。

しかしそれが終わるやいなや教授は顔を向け、まじまじと私を見つめた「この学生東洋系はおかしい、何処の誰なのか」不審の目付きが意味する詮索とは。

 

私(渡来部)も詮索した;

 

30年を越す以前の調査経験で、かの列島に住む和人にはたとえアイヌ部族を含めたとして、フランス語で何かを語り伝言としてまとめられる者が一人としていなかった。実地でのこ体験がつらい記憶の焼き込みに、激しくも濃く薄く、きっと辛苦の心に残っていたのだろう。日本人はフランス語を喋れないと。

これはある意味、今も正しい。脅迫観念の虜の教授の反応は宜なるかな、なのだ。

 

「ご存じでしょうか。戦後の日本では言論の自由が社会に広まり、皇室の成り立ちも語られるほどになりました」

「ほう、昔は不自由だったのか」

 

ルロワグーラン教授は1935~6年にアイヌ研究で日本を訪れている。期せずしてレヴィストロースがブラジル先住民調査に取りかかった時期と重なる。昭和10年、軍部の台頭、天皇機関説排撃など言論自由が侵害されていた日本の事情。その年に日本に逗留していたわけだから、言論弾圧は目撃していたはず。

故に返事は知らない素振りである。対話の技法でもある。

 

「ユーラシアの騎馬民族が皇室の祖先であるとの説がもてはやされています」

 

江上波夫の「騎馬民族説」を語った。教授がこの説を知っていた様子はなく、私の説明を聞いても同意した素振りは見せなかった。仮説なれど後に文化勲章にまで登り上がったこの主張、その論点の土台は怖ろしく脆弱だった(と21の若造が判定していた)。

教授は受け入れていない、仮説を否定する反応が顔つきに窺えた。

「遺跡や風習に遊牧民(nomade)の痕跡が裏打ちしているのか、例えば馬を去勢するなどの品種改良はこの遊牧の世界で共通だが」

北海道で調査していたから日本人が馬匹を去勢しないと知っていたに違いない。全く痛いところを突いてきた。その上、騎馬民族という部族の範疇はない。故に私が用いた「peuple sur le cheval」などは使わず、遊牧民として彼は返した。

発表の当時からくすぶっていた佐原真、石田英一郎両氏の反論も念頭において私は、

「考古学と民族学から批判を受けています」

2000年前ほどなら遺跡は残る、土からの証拠が出ない限り仮説である」

先史学の泰斗としてごもっともな警句であった。

 

以上がルロワグーラン教授との対話であった。

 

対話の合間、パクつき賞味した午餐のメニュウはfaux filet(サーロイン)、frites(揚げジャガイモ)。ボトルの形状からして赤はロワール。とてつもなく美味だった理由はサンセールかもしれない。皿にソースが残った、パンで一拭きしては舐めて食い、喰ってまた舐めすべてを平らげた。Merci, mon professeur。教授様にはありがとう。 続く

 

 

 
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