渡来部は部族民通信創始者であるも、健康に優れず出稿がなかった。写真は「中尉」だが、似ている(本人)ので使っている。
上のポスターの細部、社会人類学講座の紹介、主任教授レヴィストロースのが見える。
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口頭試問担当官が発行してくれた「能力証明書」クリックで拡大
実践高等学院EcolePratiquedesHautesEtudes講座一覧の1968年のポスター
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 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2020年1月31日
 
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渡来部 須磨男
   留学事情 50年前 レヴィストロース、ルロワグーランとの対話 1
  (読み物) 渡来部 投稿 2020年1月31日 
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部族民通信参画者の渡来部須磨男からの投稿
(2020年1月14日GooBlogに投稿された記事から一部加筆して掲載)

新聞社が主催する大学生を対象とした留学制度の公募に合格し、196870年をパリ大学第一文学部(ソルボンヌ)に籍を置いた。その顛末をレヴィストロース、ルロワグーランとの出会いと絡めてまとめた。

フランスで学期は10月に始まる。9月の初めに出発する計画を立て、飛行機代金の工面を始めた。現地に入れば生活費と学費は支給されるが、往路費用は個人持ちとの条件である。シベリア鉄道に乗り込むプランが安いけれど、日数が7日ほどかかる。
(学費:ソルボンヌなど教育機関は「国立」なので学費は支払わなかったから、補助も受けなかった)

1968年にはすでに、小澤征爾がそれに乗船してマルセイユに上陸した1959年)郵船の日仏定期航路は廃止されていた。不定期路の貨客船の選択はあったが、出発の月日は決まっていても、マルセイユにたどり着く予定の日があってもないみたいなモノだ。これでは学籍登録の期限に不安を持つ。より短い北回り(アンカレッジ)航空路モスクワ経由などは開拓されていなかった。

なんとか工面して切符を手にして飛行路を見たら寄港する数の多さに驚いた。香港、バンコク、カラチ、ベイルート、ローマ。酔っぱらいのハシゴみたいな航路だ。

それならこの際幾つかの、名所空港に逗留し遊山観光でもしてみようか、欲張りが先に出て工面する額がさらに幾ばくか膨らんだ。楽しむ前には苦労が積み上がる、21の若造にして厳しさが摂理と世間の風を味わった。

実はこのフランス行きは実現が危ぶまれていた。

1968年の派遣生。その選考は2月には終わったけれどパリの世情がなにやら落ち着かない。やもしたら送り出せないかも知れぬ、そんな世情不安の暗雲が漂っていた。案の定、学生騒乱が勃発した。いわゆる5月革命である。騒動が長引いて新学期の再開が危ぶまれたら、この年の留学生の派遣は無い。そして来年は来年で選考するから「君にはご苦労様」と慰めるしかない、事務局からこう言い含められていた。34月はきな臭く、5月の大騒乱を呼んでもなお6月をすぎて、学舎内と街中の治安は治まらなかった。

それが7月の半ばを過ぎてポトリと消えた。

夏になったら休暇、これはフランス生活の典型である。学生にしても7月になったら、路上での瓦礫投げゴッコなどすっかり忘れ、9月の末までバカンスを優先したいらしい。コレット「青い麦」みたいなモノだね。

5月の怒りを7月の学生がすっかり忘れた。

羽田から予定を早め9月初旬に出発した。機材はボーイング707

この機種、旅客機として今は運用されていない。

通路が中央、エコノミ域では左右に3席が配置される。最新機材の787では中央が4席並びでその両側に通路、さらに外側に3~4席の配置。当時の最新機材ながらキャビン狭隘さが分かるかと。

エコノミでも旅客者の数は少なかった。片側の3席を一人一人が占有してもなお余る。離陸したらすぐに3の席分けを倒して寝ころんで、あとは楽ちん高いびき。

機材がより大きくなっているけれど、エコノミはギュウと鰯缶に詰め込まれている混雑が今(らしい)。私にして(渡来部)もう海外旅行などしないけれど、人の置かれる様を聞いて50年の隔差を感じてしまう。

南回りの7日を経過して降り立ったパリは9月の半ば、季節はよろしく日差しの明るさ風の穏やかさ。秋景色の空の軽やかさには心を奪われた。

下りたって周囲を見回す。
個人的心配ゴトを抱えていた。バカンス戻りの学生が5月を思い出して騒いだら、学内が混乱する。果たして無事に学期が始まるのか。

バスに乗り込んでかいま見た空港の周辺。パリの市街は5月の争乱など起こった事実などないと全否定するほど静かに治まっていた。光あふれる街角、街路樹にたたずむ男、パンを小脇に信号待ちの女、街路には落ち着きが戻っていた。

10月に入っての月曜日、学部編入の手続きに入った。出発前に東京の仏大使館から学生査証など必要書式を得ていた。高校の卒業生は仏国でのバカロレア合格者同等の有資格と遇される建前だから、学部への編入に難しい処はないはずと聞いていた。

しかし;

事務所はJustice(パリ裁判所)の近くにあった。小さなドアを開ける。人のいきれと問答らしき声が充満する混雑。サハラ以南のアフリカ系、以北アラブ人らしき者、アジア系ではあるが色の濃い若者らはインドシナ(ヴィエトナム、ラオス、カンボジャ)からの学生と思われる。仏の教育制度から離れているが、仏語で教育を受けた旧植民地からの編入の希望者であろう。
それら「外国人学生」を審査する事務所のようだ。その看板の眺めると

Accuil des Etudiants Etrangers

海外学生受け入れ機関。その上にMinistere de l’education nationale 文部省の直轄。

 

列に並んで待つことしばし、

カウンターとアクリル衝立を挟む窓口に、素直な黒髪と透き通るほど白い頬の若い女性。こんな娘をパリジャンヌと呼ぶのかと一息を溜めていると「t’a pas de dossiers書類持ってきてないの」。呼びかけは質問ではなく「書類を出して」の急かし。私は「Si j’en apporte le jeu.一式もってきています」としっかり応えた。この辺りの記憶には自信がない(うろたえて書類を出しただけかもしれない) 

学生ヴィザ、大使館証明の国内大学在籍証、それと仏語学校(東京お茶の水)の単位証明書を提示した。その黒髪をたくし上げたパリジェンヌの目先が私の顔とパスポートを見比べて、小首をかしげて不審げ「待つコトになる」、指先で奥のドアを指示をした。

 

小さな室に入ってまたも待つ。

ドン、足蹴でドアを開けた男の歳の頃は30の後半、振り分けの髪を短く切った縁なしの眼鏡。座るままに見上げる私の面を、書類貼り付けの写真と見比べる仕草から事務官らしい。

Vous, XXXX(名前)、et la nationalite japonaise(日本人なんだ)」

...なんだには「面倒臭い、はじから無理だ」のあきらめと心内の籠もりをあからさまにしてしまった。

 

テーブル越しに座るやいなや、すぐさま質問を投げてきた。「Pourquoi vous-ineteressez vous a apprendre l’ethnologie?なぜ民族学を学びたいのか」その学の素養はあるのか、フランスの学者、学説など知るかどうかなどの、ドウでもよろしい質問の浴びせ繰り返しだった。

 

問いかけは私の素養を確かめるなどではなく「字が読めるのか会話が維持できるか」の検査だった。そもそも「日本人はまともなフランス語をしゃべれない」が彼らの常識であり、そんな民族の一人がが第一文学部に編入するのだと、今にしてもこれは正しい判断である。私の場合がまさにその類であるから。

 

こんなやっつけの対話でも一つ二つは学べる。

窓口では黒髪パリジェンヌからTu(お前、くだけた呼びかけ)と問われた。こう言われると親しみが湧く。しかし部屋に入って検査官は私をVOUS(あなた)と呼んだ。Voustuを「あなたお前」と区分するのも、この呼称の含意を日本語の位置にくみ取れば誤訳となる。フランス語でのそれは「尊敬」と「なれなれしさ」の差ではなく、社会における距離を現す。若い者同士なら、特に互いが学生であれば、初対面でもtuで呼びかける。この用法を学んだ。

一方、社会地位と年の差が歴然とする試験官とはvousで話した。これが2点目であった。

 

後に授業に臨むことになるが、学生同士はすぐさまtutoyer(お前で呼びかけ)で話し合い、教師には永らく講義を受けていてもvousvoyer(あなたを使う)からは、互いに離れられなかった。年齢差もあるが、社会での地位を互いに意識した振る舞いなのだろう。

さて;

今もって私がこの口頭諮問に「合格」した理由は分からない。答えようにもしどろもどろ、返答の様をなしていなかったとは明らかだった。

 

大学院生には国どうしで選考する留学の制度がある。

彼らには受け入れる機関が保証するから、こうした出先でアフリカ系アラブ系学生に混じって能力確認などの検査を受けるなど不要である。私費で留学する「学部」に編入するのは建前で可能だが、数は少ない。なぜなら学部の講義についていくは難しい。多くは「文明講座」なる学級に振り分けられる。

しかし大学生がフランスの大学の学部「faculte」に編入を求める、これが半世紀前にして私の場合である。当時としては珍しいケースであろう(今も珍しいかは知らない)。

ぶっつけ本番ながら無事この関門を突破できた理由は、言葉ではなく身振りに手振り、そしてそれら身体表現の奥に潜む「真心」で説明しようとする意志が感じられたからーと違いない、今となりそのように振り返っている。

質問に的確な答えを手振りで出せなかったり、対話の様の身振りがつたなかったりであったなら、学部への編入は叶わなかった事となる。必死こくと心がさらけ出される。きっと社会人類学やら民族学なるを、手振りで表現し成功したに違いない。

若者なら、形振り構わず必死を顕わにすべき時がある。

 

試験官のウケが良かったせいからか、試問結果を書式にしてくれた。(右コラム中)そして、極東の島国からはるばるやって来て、つたないけれどちょっとばっかりフランス語が話せ、手の振りの大げさ様はフランス人っぽい若者に貴重な情報でもくれてやる気になったのか、

et alors、ついでに」専攻講座を紹介してくれた。差し出されたポスターは実践高等研究所Ecole pratique des hautes etudesとある。

「君にはそれが向いているぞ、学部の階段教室で講座を聴いていても面白くなかろう」とも付け加えた。初めて聞く名前だった。

学院ポスターの写真(右コラム上)を掲載する。これは試験官が「この中から選べる」と指し示しながら手渡されたモノだ。50年経過して書類片付けの狭間に見つけた。

学院に所属する課程とその内容が紹介されている。社会人類、地理、心理分析、経済、歴史ざっと100を優に越す専門課程が並んでいる。日本の学制に喩えれば実践高等学院は歴史・社会・経済をひとまとめにした学部(こういう組織があるとして)に近い。その一の学部が100を越す教授と課程を有するとなる。日本で最大の「学部」がいずれかを私は知らないが、これほど多数の専門課程を抱える組織は無いかと思う。

 

とっさに筆頭にあるanthropologie socialeを私は選んだ。試験官は「une bonne selection良い選択だ」と褒め、連絡先の住所を書き渡してくれた。

 

Anthropologie sociale…がなぜ部の第一の行を占めていたかとはその時、詮索しなかった(科としてはantho…prehistoireの後で2番目)。きっと重要な課程だから初めと、いつもの安請け合い思考で考えただけ。それなら講座も充実しているだろう。教授(professeur)の名にC.Levi-Straussがしっかりと書かれている。これならば同期となる学生にも俊才が揃うはずだ、早合点の期待に胸がふくらんだ。

しかし筆頭の位置はアルファベットの順、anthro…は必ずgeolo、やsociolo…よりも先に来る。オリンピック入場でAngolaが必ず一番手になる、それだけの価値です。さらに試験官の「良い選択」の意味を、どうも取り違えていたようだ。たしかにLevi-Straussの高名はパリに広まっていた。しかしそれと学生が学位の後の就業に有利かどうかは別の話となる。
そもそもフランス人が人を褒めるときには裏があると気づくべきだ。

 

日本は高度成長の時期なので当時すでに人手不足が始まって学士を取る(筈の)ゴロ学生にしても職に就けた。フランスはそうした学生有利の環境には無かった。就業を目的として大学にはいるなら、文系では経済、政治、国際など。売れ行きの良いこれら部門は他の機関(例えば高等師範学校、政治学院など、入る自体が難しいEcoles)が占めている。

ソルボンヌに学籍申請する時点で教育界を目指す方以外は一般会社への就業に苦労する事になる。単位修得の後が難しい。それでも苦労なしの御仁は居るもので、強力なコネを使えれば就職できる。そうしたコネがなければ就業には苦労する。ちなみにフランスはコネがなければ、まともに生きて行くには難しい社会です。

試験官の言葉の裏に戻ろう。

褒め言葉の裏とは、

「その課程は人気がないから、お前でも登録できるだろうよ」

「実利と関係がないから学ぶ喜びみたいなモノは叶えられるかも」

「他の選択がないヤツにはなんとかまとも

裏押しが籠められていたと知るべきだった。

本来は100を越す課程の一つ一つを検分して、優先を決めそれぞれの事務局を訪ねて、紙切れ(口頭試問の合格証)をかざして登録可能かを確かめるべきだった。

ポスターを眺めながら、他の教授課程を拾うと;

Condominas(民族学ベトナム高地人の研究)

Malaurie(民族歴史極北民族調査)

LeGoff(歴史書多い)

Barthes(意味論)

Balandier(アフリカ、ドゴン族)

当時の社会科学系で今にして名を残す泰斗の名がいくか読める。

 

レヴィストロースの講義を受けられるかも知れない、この期待は半分当たって、半分はずれた。その当たり半分で、由とするべきなのか。続く

 

 
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