海外の王族として本邦を初めて訪れたエジンバラ公爵に、二度も幣祓えを実行した明治政府。諭吉をして泣きたくなったと反応さしめています。嘆かわしさの理由には、神道の教義があったわけです。
自由の在処で彼我の差を思い知り、罪の元凶で泣いた。西洋思想の導入の先達、心の内の葛藤です。
蕃神
神社お参りで見かける幣。これで祓えば身の内は一旦、清浄となる。
ガレティア号、3本マストに煙突2本のスクリュウ機帆船。大きさからフリゲート級。5000トンとネットで読めるが。ハワイ寄港の理由は、この島はクックが発見したのだから、英国としては権益を確保したかったはず。政情の下見であった。後にアメリカに編入された経緯はネットで確認してください。
クリックで拡大。
海外の王族として始めて本邦を訪問したエジンバラ公爵、22歳。後のザクセン・コーダ公国の公。
 部族民通信ホームページ   開設元年6月10日 投稿2019年10月15日
 
ボロロ族酋長 
悲しき熱帯より
       部族民通信  ホームページに 読み物ページに  
 主宰・蕃神(ハカミ)義男
   地獄は身の内 l'enfer, c'est nous-meme 追加
 明治天皇、英公爵と対面する
 
地獄は身の内1に飛ぶ 地獄は身の内2 地獄は身の内追加
 
 

悪は何処に棲むかには二通りの信心があり、1悪は外部、人はそもそも無垢の性状で、外部悪に感化され悪行をなす。この信心では人を殺す悪人にしても、外部悪の犠牲者となります。その2悪は身のうち、心の内に棲みふと油断すると悪が頭をもたげる。すると悪人こそが悪の主犯ですーと投稿しました(上のリンクサイト)またでまとめております。

日本人が心に持つ信心にして、それを教義とした神道も2を奉る。ホームページ投稿では傍証として水垢離、滝うたれ等を数えました。

「明治天皇」(ドナルドキーン、新潮社)で興味深い例に出会いました。明治政府・神祇官とは日本にあるあらゆる神社の「目付」です。その方が「悪は身のうち」の悪祓いを実践した例を挙げます。

 

明治天皇が始めて海外から表敬を迎えたのは、英国軍艦ガラティア号の船長アルフレッド大佐、実はヴィクトリア女王の第2王子にしてエジンバラ公爵、その歳は若干の22。太平洋遠洋航海の任務を終えて帰国の途上であった。明治2(1869)831日に横浜入港し、天皇謁見は93日。これは外務省のネット航海の記録から。

 

発足間もない明治政府には降って湧いたか、パークス英公使から突然の公爵訪問の申し出であった。ご維新となり明治帝が江戸に行幸したのは明治元年(1968)10月、一旦京都に戻り(還幸)東京に帰った(再幸)のは23月となった。さらに太政官の移設など首都としての機構の整備、充実に数月を経て、9月にもいまだ完了せずであったと推察する。皇城(皇居)をして政所の整えには10月を待たねばならなかった。皇后、内廷女官らの合流には年末となる。9月の公爵謁見には美子皇后にあられ同席になられなかった事になる。

 

ガラティア号の航海旅程を調べると;

19681月にプリマスを出港、南ア、インド、オーストラリア、ニュージーランドなど植民地を巡回、当時は独立王国ハワイに1868年末に投錨した。ハワイ王国カメハメハ5世への表敬訪問が続いたはずだ。時間の制約などで全てのネット情報など掴めないが、1869年の帰航の記録は小筆には見えていないから、ハワイで公式行事は終わったと思える。

公式任務から離れたらアルフレッド大佐がエジンバラ公爵に戻った。本文の出だしでは船長にて公爵としたが、日本に向かう航海の船上では船長の役目はさしおき、身分は公爵である。

 

ハワイで帰航の船体整備に入った。同船は「機帆船」、写真(ネットから)を挙げる。鉄骨木造蒸気機関、スクリュー付きの最新フリゲート艦であった。水、食料以外に石炭の手当も必須となるから7月まで入港していた。半年を越える逗留の理由とは、機帆船ならば整備箇所もいろいろと出てくるのかも知れない。さらに勘ぐれば補修や物品の手当を恣意的に遅らせ、7月末までの時期を見計らっていたかも知れない。8月の初に出港、4週で日本に到着した。

 

日本の状況は;

元年1868年となれば新体制の先行きは見えてきた。王政復古(1月)、戊辰戦争は8月には幕府側は函館を残すのみ。江戸の治安も安定に向かう、10月には行幸と重ねて江戸が東京と改名し、ここに執政地が置かれると決まった。パークスにしても新政府の先行き、見通しが定まったであろう。維新進行具合とガラティア号日程のすきまを外交に使った。

そもそもの予定はハワイで日程を終えインド経由で帰航する、この通りとの連絡が1868年末にはパークスに寄せられていた筈である。1868年末の時点はアルフレッド大佐が本貫とする身分エジンバラ公爵に戻り、帰途に日本を訪れる。

太平洋航海の帆船、機帆船は日本に立ち寄り、必ず水食料、石炭を補給する行程をとる。開国の圧力が補給だった。すると課題は何時に訪れるかであった。パークスにしても海軍大佐が天皇を訪問したいとは言い出せまい。しかし船上には肩書きを変えたエジンバラ公爵アルフレッドである。

 

想像を越えないが;

ニュージーランドを離れる時期(18688月)には維新の先行きが見えていたから、公式に決まっていたハワイ訪問にして、長すぎるかに思える逗留日程はこの段階で画策されていたのかもしれない。「早めに来日しても帝には会えない」戊辰戦争の終結を見てとの思惑がパークスによぎったかも知れない。英国は積極的に皇朝側、薩長を支援していたから、パークスには情報も多く入ってきたのであろう。

これらの通信の手段は1850年代から隆盛を迎えているクリッパー船(茶、ウールなど英連邦を結ぶ高速貨物帆船)などであろか。香港に基盤を置く英国系商社(ジャーディンマセソンなど)も日本開国は商機とみて、横浜開港(1858)翌年には日本支店を設けている。船舶の往来数は増えていただろう。

インターネットメールの瞬時性には及ぶべくないが、予定と部分変更を仕掛けにして読み次第で思惑の矢が正鵠を射ることもある。そうなら無ければ戦も経済も負ける。パークスの読みはこの時正しく、函館の戦闘が終結したのは26月末であった。

1868,69年の江戸、京都の騒乱、戊辰戦争粉塵の舞い散り模様、ふとした終焉の狭間に公爵の表敬日程が納まった。正鵠としたが、これほど読みの当たった外交の例は少ないか、個人の見解です)

 

パークスは天皇と公爵の「対等」の対面を申し入れていた。

 

「対等」が懸念になった。

天皇と「対等」、その存在は日本に無い。

天皇には臣下しかいない。臣以下を雑とするがこれらは土民の範疇なので皇朝は無視しておいた。謁見のしきたりとは平身低頭した臣の伺候を「御簾」の内から帝が聞く。「玉体不可視」が決まりであった。御簾を間にはさむには宗教的理由もある。これは神道根本の教条とからみ冒頭に挙げた「悪」の居場所と絡まって、思いがけない展開を後に導く。

子細は後述する。

 

「対等」とは帝が御簾の外に出てその存在を見せ、立席し客を迎える。客は握手を求めるから身分が釣り合わなくとも「対等に」握手に応じる。すなわち帝が夷荻と接触する事になる。接触が政府、内廷に相当の波紋を巻き起こした。

 

however the decision to accord appropriate honor to the Duke has been the subject of much debate in the Japanese government .Iwakura Tomomi observed to Sir Hurry (Parkes) that the reception of the Duke had caused the government much anxious consideration; (Britain & Japan biographical portraits より。ネット採取)

 

太政官岩倉具視の名が見える。「公爵の受け入れ次第が議論になった。取りまとめに相当苦労した」と政権内部の諍いを愚痴っぽくパークスに告げている。数行の後には(公爵離日後に)式典の無事終了をパークスが澤外務卿に感謝したとの記述も見える。

ネット百科で調べると外務省の設立は27月、澤宣嘉は初代外務卿(大臣)

<天保6年(1836年)、姉小路公遂の五男として誕生。後に澤為量の婿養子となる。安政5年(1858年)の日米修好通商条約締結の勅許に反対して廷臣八十八卿列参事件に関わる。尊皇攘夷派として活動した>Wikipedia

そもそも澤は「尊皇攘夷」の要人。ならば貴顕であろうが異国人が帝の前面に立ち握手するなどは「以てのほか」だが、宮廷内のそうした反対異見を抑えた。

岩倉にしても維新の高官の誰も、安政の勅許(開国)に「攘夷」を掲げ反対した。政権取得のあとの変わり身の速さでは建前も本音も無い、時の利益を取ればよい身も蓋もなさを発揮したが、この柔軟さが維新成功の原動力であったわけだ。

 

立王子(イギリスならばウエールズ王子)ならまだしも相手は一王子。待遇を一段落として公賓で迎えるさえも破格。しかし明治政府は天皇と「対等」で迎えると決断した。

政府には別方向の政治ベクトルが働いていた。「対等」などは格違いとはねつけるではなく、なんとしてでも受け入れようの作戦である。その目的とは先進諸国にこの明治政府を認識してもらいたいに尽きる。

周到に用意し準備ぬかりなく進め、拝謁(公爵が天皇に訪問するわけなのでこの語を用いたが実際は接遇、対等の段取りだった)にもパークス同席を認め無事に終え、相撲、能狂言の出し物などの歓待にも取り立てての失態もなく、日程を消化した。

なお外務省ネット資料では公爵訪問を「国賓」としているが、英国側の資料にその記述は(ネット上に限り)見えない。元首である天皇との対等を突き詰めれば公爵をして国賓に遇するでしかあり得ない。破格待遇にやましさをぬぐえない省の後日の「格上げ」ではなかろうか。

 

さて岩倉が愚痴った「much anxious consideration」とは何か。小筆のネット検索範囲ではこれに対しての記述はない。そこで想像も含めて;

 

1      維新の主義は「尊皇攘夷」である。攘夷とは外国を排撃し野蛮として排除する実行動である。排撃思潮はいまだに健在である。過激武士が実力行使すれば刃傷沙汰につながる。横浜から東京への遠出は危険でないか。

2      東京にしても遷都直後にして受け入れ施設に不都合があってはまずい。

 

などであろうか。

しかしそれらはいずれも解決した。

1にしては、前述とおりで政権樹立後、当の本人達がたちどころに攘夷などすっかり忘れているし、今にして言う「原理主義」はご都合が優先するこの国に、根付く土面は寸土もない。2にしては公爵一行の宿泊所を浜離宮ときめ、什器設備、内部の拵え一式を上海に発注している。これら全てがパークスの肝いり、ジャーディンマセソンの仲介(商取引)をも呼び込んだ。同社が大儲けしたともネット情報には書かれる。

パークスは娘二人をジャーディン支配人に嫁がせるなど、両者の関係は公私ともに密であった。表層に見つかった外交プロトコルの懸念をパークスが、個人的関心を抑えずにかく解決したのである。

 

埋まらないのが「御簾」外しである。御簾の一つが岩倉卿にして取りまとめに苦労をし強いた。

 

パークスも1868年に謁見を許されている(京都パークス襲撃事件の発端)。謁見次第の記録は見当たらない。玉座への平身低頭については不明だが、御簾の内に鎮座していたとは傍証がある。>明治天皇にガーター勲章を授与するために訪日、ミットフォードは首席随行員として再来日。 ... そして昔の御簾の中の存在だったことを知っているだけに、国賓のために新橋の駅で明治天皇が出迎えられたのになにより驚愕した(桜木健二氏のブログから)<

この不可視をパークスが否定したのである。東洋的外交儀礼を西欧は常に卑屈であると否定した。清ではこの不平等が顕著で、皇帝の拝謁儀礼は三跪九叩頭である。清と西欧外交使との紛糾の種となっていた。

 

ドナルドキーン著「明治天皇」(新潮社)を参考にエジンバラ公爵の拝謁(接遇)次第を再現しよう。

横浜から品川への道程には随行員に騎乗が許され、公は差し向けの篭に乗り込んだ。街道に面する家屋の2階窓は板が張られ厳重に封戸された(英語資料ではピーピングトムを防止したとも)。これは大名行列の格式に準じている。

品川宿に到着した一行を迎えたのは勅使(宮家)、政府の歓待振りを見せたのだが、待ちかまえていた神官を隠す仕掛けでもあった。この神官(神祇官であれば有栖川宮となるが不詳)は大幣を取って、一行、その中でも公爵にむけて幾度も「幣」祓えを実行した。儀礼は皇城に入る寸前でも実行された。

公爵側はそれが何事かを理解にいたらず「歓迎を表す儀礼」と好意に解釈した節も読める。

幣による祓えの決まりは、振りまわす幣(白紙の束ね)が対象者に当たりかすれを規範とする。あたかも水垢離の冷水が身体を打つかの様である。

エジンバラ公爵を幣が打ったかについては、「幾分離れて祓った」だけとする記述もあるが、そんな妥協策では効果が望めない。幣の端が身体に触れないといけない。よって穢れ祓いの原理主義者たる神官にたっぷりと幣祓いを受けた筈だ。

実際は分からない。

 

祓えとは何か;

身体に淀む穢れを封ずる目的である。先ほどは水垢離と比較したが、神域に入るためには滝打たれ、川()面に身を沈めるなどの「祓え」儀礼が用意される。神社参り(これも神域に入る)に祓えは必須だが、水垢離など冷たい工程は修験者に専用と課しおいて、一般氏子には痛くも冷たくもない幣で祓うのである。祓うときには身体を幣が打たなければ効果が出ない。

天皇派遣の神主さんが品川と宮中の門前で丁寧に、しつこくも祓えを実行した訳が「御簾」外し対策である。対等ならば対面し問答して握手する。夷狄が身中に持つ害毒は強力と噂される。汚らわしい悪の感染予防である。

攘夷の背景とは「夷狄」は穢れている。神州日本に立ち入るべからずの排他思想がある。政治は開国と決めても、信心はすぐには変わらない。その夷狄に玉体不可視が破られた上に、握手までする。入念に「穢れ」を祓うべしと2度のお祓いが設けられた。

 

二度の儀式は「公爵を悪から守るためではなく、外国人の穢れから帝を守るためだった」事の次第を聞いた福沢諭吉は「笑うどころではない、泣きたくなった」嘆きの様は福翁自伝に読める。

小筆は日本人の信心は「穢れは身のうち=l’enfer, c’est nous-meme」であるとGooBlog、および当ホームサイトに投稿している。生まれたての政府のしきたり破り、そのなりふり構わずに、宮中が入念なお払いで対抗した。その行動はまさに「悪は身の内、身の穢れ」を信じていたに他ならない。

地獄は他者「l’enfer, c’est le autres」の西欧世界と神道教条の初めての邂逅でした。

日本と西欧、罪の在処の差異をでご確認。

ページトップに戻る