史学の門外漢だから有名なら「すごい」の選択である、このミーハー根性の丸出しを許せ。

ミーハーとは戦後まもなく、アプレゲール(戦後派)野郎が浮かれ気分で「私をミー彼女はハー」と呼んで「ミーのハーちゃんイカスのよ」と自慢した事に由来する
法王猊下にあられ来日(2019年11月23~26日)いたしました。来日を前に「日本は死刑制度を廃止すべき」の声明を発表しておられます。アムネスティなどの人権機関も「文明国であるなら廃止せよ」と「勧告」しています。
日本人が死刑を廃止しない理由は、日本は西洋基準での「文明国」ではないからです。殺人には死刑をの報復心情から日本人は抜け出せない。
理由は「地獄は身の内」に凝り固まっているからです。

蕃神

なぜ身の内の地獄が報復を望むのかは本稿最終に。
 部族民通信ホームページ  投稿12月15日  開設元年6月10日 更新
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  地獄は身の内 l'enfer, c'est nous-meme 2 (最終)
「中世の罪と罰」を読んで
 
地獄は身の内 1に飛ぶ  地獄は身の内2 地獄は身の内追加    
 サイト主宰・蕃神
   

「中世の罪と罰」(講談社学術文庫、著者は網野善彦ら、出版201911月)、日本人の罪悪感が中世以来、一向に変様していない。それどころか古事記があげる「ツミと祓い」の信条にも変化は見あたらないと気付き驚く。そして「さもありなん」、民族心情の頑なさを再認識した。

国史の碩学4峰(他は石井、笠松、勝股)の過去の著作から表題に沿う作品を選び、一冊にまとめている。紙の背表紙200頁ほどの小冊ながら内容には、それぞれが掘り下げた含蓄深い10の小品を掲載している。他に4氏討論の記録、50頁ほどが補追されるが、2の先達(網野、石井)は鬼籍に入られている現在、これほど内容の濃い討論はなかなか望めないと思い知る。討論の日付は19839月。

(小筆がこの本を手に取った理由は、実は、網野、石井両学の名を背表紙に見つけた故。史学の門外漢だから有名なら「すごい」の選択である、ミーハー根性の丸出しを許せ)

 

1 「お前の母さん…」笠松宏至

続く言葉は身体の特異である。こうした言い回しは侮蔑語として今は嫌われるから、ここに記述しない。凹む筈のヘソがいくぶんか突起している状態を表す。かつては子供の喧嘩の負け惜しみ的悪口として用いられた。本文では一度のみ、その語が現れる。筆者の姪がその兄に向けた悪口、しかし姪も兄も母は同じ。自分の悪口になっているのだが、幼少のためそれとは気付なかったうっかりが導入部です。

著者は「悪口」は何かをを展開する;

1    中世の悪口の罪(御成敗式目51条)。多くは身分上の蔑称(乞食非人など)をあからさまに人に向けた罪の例。

2    「母買」を悪口とした。罰は2貫文。この言葉がなぜ悪口なのかを探り、これを「お前の母さん…」と同列と結びつけるが、単なる欠点指摘の割には過料の多さにわだかまりが残る。(2貫文は今の30万円の価値)

3    平安期のオヤマキなる悪口に出会う。この語は「クニツツミ国津罪」(古事記など)の「母子婚たわけ」につながる。平安期のオヤマキが鎌倉期に「母買」に変化した。故に母買の「買カイ」は当て字で、その部位は貝(女性器)。しかも形状を揶揄するのではなく、英語の「マザーファッカー」たわけを実行しているヤツとの罵倒である。

4    今は(出筆時は1990年代と伺える)悪口の度合いは「お前の母さん…」に希薄しているけれど、かつては「マザーファ…」と同水準の激しい罵倒が用いられていた。

 

2 「ミミヲキリ、ハナヲソグ」勝股鎮夫(鎮の造りは旧字体が正しい)

古代、中世日本には牢獄が無かった。禁固懲役の施設がないから、罰には徒刑流刑(いずれも身分剥奪のうえ他所流し)の他に身体刑があった。鼻切り、指切り、疵つけ、焼き印、墨(入れ墨)など。これらを罰とする根拠に「外貌を変えるところに狙いがあった、犯罪者を一般の人々と区別するコトに主眼があった」としている。さらに「不吉な様子に変えてしまう、人間でありながら、人間ではない「異形」にすることに比重がかけられている刑」(49頁)。

 

3 身曳きと“いましめ” 石井進

古語のツミとはタブーに反する行為や実体をさし、これに対応する言葉は、それによって生じたケガレを解除する「はらへ」であった。原始の日本法では「罪と罰」ではなく「つみとはらへ」であった。(176頁)  

以上、3の行句を引用した。

小筆としてこれらを部族民流に再構成せむと、まことに僭越ながら試みる。
石井氏の卓越した指摘は「罪と罰」をかつての日本人は持たなかった、「つみとはらへ」の観念しかなかったである。これを神道の「穢れと祓え」に読み替えたい。穢れとは人が常に内包する本性で考え、動き、判断するあらゆる場面に身体の内側で増殖している。祈りの最中に「腹減った、カツ丼食いたい」の思いつきは穢れです。神に願うなどの場面で身の内に貯めこんだ「穢れ」を持つままでは神域に入れない。神主さんに幣を振っていただき、穢れを祓う。滝に打たれたり、水垢離して震えるも有効です。

 

穢れはなにがしかのきっかけで、戒めとして外に出る。きっかけを祟りと伝える。神への祈りが足りない、願掛けして神との約束を守らなかったなどでそれが発露する。泥棒、かっぱらいだって、そもそもの不信心が原因である。
個人の穢れのみでは説明しきれない突発的不具合も露見する。親の祟り、先祖7代の祟りなどとそれらを教える。

クニツツミではハンセン病クル病をツミとしている。この不合理な罪状付けを解釈するには「病人にはそもそもの穢れがあって祈祷でも祓えでも抑えられなかった。先祖の悪行の祟りだ、これがツミだ」と信心しているのではないか。
その上、個人では制御できない運命なのだから、仕方がないと諦めろとも言われてしまう。

戦前にはこうした心情が優性だった。ハンセン氏病に罹患した子、兄弟を村落隣近所から隠す親の苦労の必死を新聞等が伝えている。この行動は「先祖の祟り」を隠蔽するためである。

身体刑にも察しがつく。

これは身体内部の穢れの表層化である。ツミに至らせた穢れを、人に知らしめるべく焼き印、入れ墨、鼻そぎなどでその者の身体表面に表現する。見えない穢れを形体で疑似再現する。穢れの根源を見せるから祓えでもある。

地獄は身の内 1で土偶の恣意的損壊を述べた。損壊をして「穢れ=病痛部」の本身からの隔離すれば、祓えに繋がるかとの推論も導かれる。身体刑と同じ論理思考である。縄文期とは神道成立の以前か、その頃から宗教よりも根深い土俗に根ざす「信心」が「穢れは身の内」としていたのだろうか)

ではオヤマキ、母買は何のツミか。

笠松説ではこれは母との姦淫(親子婚タワケ)です。

この禁忌破りの根本原因とはそもそも男(女)には穢れ(ツミ)があり、祓えしてもあるいは往々にして人はさぼるからツミを消しきれなかった。さぼりの結果(祟りとも)が禁忌破りとして発現した。日本人がかつて信じていた罪状と罰の心情をこの様に考えられないだろうか。クニツツミには他に、シラヒト、コクミ(疾病、前述)、昆虫(の大発生)、落雷、鳥の災害など今の我々が考える「罪」とは相容れない「ツミ」が幾つか数えられる。これらも誰か、おそらく高位高官、あるいは被害村落の指導者などの至らなさ(穢れ)による災難と考えていたと類推できる。

明治以前は災厄避けを目的に、年号を変えていた。こちらは統治者ではなく号の至らなさ、すなわち言霊が疲弊してしまって穢れ、ツミが発生した。このツミを遮断するための処置と考えれば説明がつく(実際にそうした言い訳を述べていた)。

令和の号に平安を願う今の日本人と同じ心境です。

彼我の罪と罰の意識差をPDF(2頁)にした。をクリック。

今の世に「ツミ」は生きている;

1 議員事務所で不祥事が発覚した。彼は「全てが自分の責任です。忙しいのでフト、秘書に任せきりにしてしまった。この至らなさが(穢れツミ)であり、けっして私腹を肥やすなどの外部要因からの「罪」に当たりません」。次の選挙で当選する。すると「禊ぎは済んだ」「祓いは終わった」と公言する。
落選したらなおさら「禊ぎは済む」から、次に向かって頑張る。

2 オリンピックの制服を「腰パンツルック」でカッコ良く決めた選手が、なんとマスコミに叩かれた。彼を庇うは女性議員。「見てくれを由として外見を目立たせようと、腰パンツにしたのではない。自身の性状、体躯に似合っているからとフト、流行スタイルを取りいれた」。「フト、腰パンツ」が穢れでツミ、マスコミ叩きが祓い。あっという間に腰パンツの過激報道は終息した。禊ぎは済んだ。

3 台風被害(2019年11月)の千葉県。怒り県民の一人「上陸の当夜、知事が友人と酒盛りしていた。こんな知事だから台風が襲うのだ」(新聞報道による)酒盛りが穢れでツミ、台風の被害が祓い。

4 新聞等で報道される凶悪犯罪被害者遺族の刑罰感。
死刑判決に対しては「これであの子(被害者)の霊が浮かばれる」「仏壇のあの子に伝えます。喜んでくれるでしょう」と涙ぐむ。浮かばれるとは霊が本来住むべきあの世に行ける事を言い表します。あの世に行けない霊は「浮かばれず」この世を浮浪するだけ。さまよえる霊は遺族には耐え難い。

5 死刑判決の遺族の感慨を全数、検分しているわけではない。しかしアーミッシュ(米国に居住するドイツ系移民、入植当初の18世紀の風俗、信仰を維持している)の被害者母が「犯人も犯行も憎まない」苦しみながらも許した反応は、中世の彼の地の信仰の有様はいかにかを如実に教える。日本ではこの感慨はまず出てこない(と思うが)。

最後に;

地獄は身の内なら、その身の地獄を成敗しなければ気が収まらない。犯罪者に全ての責任が帰せられる。潔さが日本の信心である。殺人者の自己責任論とも言えよう。故に本邦では、死刑の廃止は進んでいない、それどころか国民の議題にも挙がらない。

そして、
ユダヤカソリックの教条は「地獄は他者」に徹底している。犯罪者にしても悪の「被害者」である。

 

本書を読み改めて地獄は身の内(lenfer cest nous meme)の日本人的仕組みを考えました。了 (2019129日)

 

 
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