哲学者の役割、Magazine litteraireより。

カント先験を土台に人間社会の「構造」を立ち上げた気概であろう。尊師の御歳77歳、論文紹介はアラカルトに。




第一頁、a la musiqueとあり、本書は音楽に捧げられているとの意味ととれる。実は下の楽譜はEmmanuel Chabrier作の同名の楽曲である。奉辞と楽曲名を重ねている。
女声コーラスとソプラノソロ。Plasson指揮ソロHendricksのCDは入手でき
ボロロ族現地調査のレヴィストロース 27歳
イトコ婚を実行して富の分散を防ぐ理念図、親族の基本構造から

前文の一部

本書の第一行目に
Le but de ce livre est de montrer comment des categories empriques, telle que celles de cru et le cuit…
生調理、新鮮腐敗などの経験則での判断が、いかに思想を表現しているかを明らかにする)神話学41600頁の目的である。


本書原典
 部族民通信ホームページ  投稿6月30日  開設元年6月10日
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ボロロ族酋長 
悲しき熱帯より
   人類学神話哲学フランス語修辞 レヴィストロース解説        サイト主宰
蕃神(ハカミ)義男
     神話学 第一巻 生と調理1  1に移る 2に移る 3に移る 4に移る  
 

生と調理 1

(表題は2017913日にGooblogに投稿、当サイト向けに20196月に加筆、投稿)

レヴィストロース構造主義への理解を深めたく著作を読む。はじめに「悲しき熱帯」TristesTropiques取りかかり、「悲しき熱帯の真実」として2019年5月にホームページに投稿した(4回)。「悲しき熱帯の真実第一回」に飛ぶ。

前文では構造主義について解説しています。長いので別頁にし クリック)

レヴィストロースの「生と調理」(Le cru et cuit)は神話学4巻の嚆矢として1960年に出版された。南米先住民から採取された200を越す神話を、構造主義の手順で解析し、語りの裏に潜む思想、文化観、論理を引き出した。
語り口、筋道そして思想は「文化対自然」である。

自然とはそこに見える聞こえる現実で見境などなく連続しているから、混乱しているだけ。そこでは行動、習俗に規律なる枷がかかる事はない、あるがままの風情性状で日々を重ね、月と歳を反復する。直情、堕落、官能の世である。

連続(continuite)とは;

規制、しきたりが無い社会。
制度の不在、反抗の頻発、独り占めと食い占め、おもんばかり欠落、近親姦淫の蔓延、父殺し同族殺戮の頻発。人と人の間には「相克、対立、否定」がもっぱらとなる。近親姦はなぜ連続か。通過儀礼を前にして母との別れを拒む子、子との別離を望まぬ母は、感情移入に二人して、継続を望み同居を姦淫とを連続させた。近すぎる婚姻を禁忌とする制度からして、これは同盟の否定である。
毒流し漁の漁獲を独り占めした女がボロロ族にいた。食欲と収穫に境目を置かない彼女は、族民
1年分の魚を全て食べ尽くした。淫と欲、かくなる堕落は自然のなせる連続である。

断絶(discontinuite)とは;

文化はしきたり、規制だから、人々に禁忌を強制すれば接近と性欲、居住と姦淫を分断できる。食事作法という規制をもって食欲が貧食の放縦に逃避する道が遮断される。

思想がうち立てる秩序が文化であり、それが自然の連続放縦、見境無しを分断する。南米神話は火の発見をもって社会の創造とする。火を用いるとは技術であり習俗でもある。手順と作法がその場(食事)に導入され、生肉大食らいの慣習を駆逐した。南米先住民の食とは畢竟、野ブタの炙り肉に尽きる。肉を巡り誰がどのように食べるか、食べる権利を持つかの文化も導入した。

自然を断ち切る文化(思想)、文化を希求する精神のうごめきがある。一方で、文化への戸惑いも人は隠しきれない。あるがままの自然からは淫らな連続の誘い寄せられ、それ故に、文化の厳格さを前にして、踏みこむ足が先に進まない。自然を求める心のブレも神話に多く語られる。

文化への希求をテーマ(本書はschemeスキームとする)とすれば、アンチテーマに自然への戻りが語られる。

生と料理の内表紙

ここから本文

本書の前文はouverture序曲とされる。

構成は;

1 神話学は何を目的とするか

2 どの様な身の丈で、どのように動き回るのか(methodologie、方法論)

3 神話とは何物か

序曲第1頁、第1行にLe but de ce livre..が読める(私蔵書の読み痕にはご容赦)


1に入る、序曲1行目;

Le but de ce livre est de montrer comment des categories empiriques, cru et cuit, frais et pourri…...peuvent servir d’ outils conceptuels pour degager des notions abstraites ... >(9)

; 生や調理、新鮮と腐敗、あるいは湿っているか炙られているかなど、経験を通して分別する官能則が、如何にして概念的、抽象思考を表出し、それらを整理し正しい位置に置いているかを証明する。

注)empiriqueは経験的です。例えば視覚嗅覚など経験できる範囲での表現で何かを伝える、別の言い方で「官能」野とされる。経験とは官能から発生した言葉と読める。とりあえず「生と調理」や「新鮮と腐敗」の感覚的言い回しが論理、思考を言い換えているのだと見当をつける。ならばその言い方は「換喩」であるかと疑り進める。

かなり跳ぶけれど当巻末の346頁、最終章の最終行に類似した言い回しがある。本書の結びとなる一文は;

La structure feuilletee du mythe permet de voir une matrice de significations rangees en lignes et en colloneslunique reponse que suggere ce livre est que les mythes signifient lesprit>

;神話が薄片となり重層した構造に目を向けると、そこに横糸と縦糸の「意味付け」のひな形が織り込まれていると気付いた。ひな形は伝播するにつれ変容し、他の神話の骨格に再形成される。この仕組みが示す「意味合い」については「神話は精神である」を唯一の答とする。

巻頭と巻末を合わせると、まだ紐解かぬ340頁の中身にまで推察が深まりそうだ。キセル(スイカ、パスモの時代には廃ってしまった運賃軽減の曲芸技)の省頭脳には喜ぶが、これら序文と終節の句には留意すると;

神話にそもそも原型(ひな形)があり、そこに「精神」が宿り、それが伝播する過程は自己生育、自主活動していると読める。本書340頁余には「神話精神」の生成と自律の伝播の様が記載され、レヴィストロースの解析絡繰りがもっぱら記述されていると勘ぐれる。

前記1(何を目的とするか)の回答となろうか。

 

すなわち神話とは生と腐敗など「官能則」の言い回しを用いるが、そこにはメタ官能(思考)が備わり、語られるままに「官能則の言い回しは精神に反応しながら」神話が民族を越えて伝播する。神話学の4部作での構造主義的主張とは、基準神話、M1(ボロロ族伝承、火と水の取得)がいかに南米マトグロッソ、アマゾニア諸部族、さらには北米プレーンズプレーリーのアメランディアン(新大陸先住民)に伝播、浸透していったかの伝播の仕掛けを説明している。

用いる語彙は生と火、蜜と灰、さらに食事中の咬合音の強制あるいは無音食の規律など「官能則」を表す単純語である。レヴィストロースは官能則の言葉に思考、思想の抽象語を対比させている。経験的用語は「換喩」である。


注;過去を背負い、歴史を継承する有文字の文化、ラテン語から派生したフランス語は、抽象概念の表現としてはキケロ、プルタークなど思考と修辞を伝える遺産に欠くところはない。デカルト、カントに流れる哲学の系譜も、大本にラテン(ギリシャ)語がひかえている。本神話学が対象とする部族、アメランディアンは旧世界からは隔絶し、無文字文化を踏襲していた。ゆえに語り口はその部族の経験からの筋回しだけに限られる。よって直接的の表現となる。生と料理、新鮮と腐敗など。

その背後の「メタ表現」はヒトとして共通の倫理論理、これはカントの先験かも知れない、が被さるから、西洋流の哲学に対照できる思想が隠れているーとレヴィストロースは主張する。

 

序曲を読み進もう。

l’etude de mythe pose un problem methodologique, elle ne peut se conformer au principe cartesien de deviser la difficulte…>(P13)

拙訳;神話の研究とはそのやり方がいまだ定まらず、解釈に難しさが生じると、ともかくモノを要素ごとに分解して、また集めては実体に迫るとするデカルト的方法はそぐわない。注)引用文中の cartesienカルテジアンとはデカルト哲学的、あるいはその信奉者。

このあとune forme synthetique au mythe(神話の統合的形態)やらmythe est anaclastique(神話は分解できない)など首と頭を共ひねりしても理解不能表現がぞろと出てくる。ともかく、cartesien(デカルト方法論、形質を要素分解して本質に迫る)を否定的に引き合いに出して「分解してはならない」と語っている。

分解したら神話は壊れる、それなら一体どんな手法で神話を解析できるのか;

des filamants epars se soudent, des lacunes se comblent, des connections setablissent, quelque chose qui ressemble un ordre transparait derriere le chaos>(P11)

拙訳;(目をこらすと)離ればなれの微かな光芒が寄り集まり、間隙は埋まりそれぞれに繋がりがうち立てられ、混乱の背景に秩序がなにやら見えてくる。

宇宙の銀河の様を語り、観察の術と教えるのだが、それを神話研究の比喩としている。すなわち、「眺める」これが神話研究である。

前述(現象論での思考過程)の混乱対秩序の構造に喩えたら分かるだろう。

見た目は混乱、それが実体。まとまりのない星雲、神話群にしてもそれは同じ。しかし見透かすと、まとまりが見えてくる、思考の力である。重力の法則あるいは相対性理論なんかがモヤと視野に浮かび上がるのだ。(デカルト的)に分解してはならない、統合するのだと云うようだ。

前述の「構成2」の(どのような身の丈)に説明が進む。

 

構造主義の基本、2重性と相互依存を神話に当てはめると;

神話それぞれには筋立ての多様さ、定まりのないエピソード、登場人物(動物)の変異、ヒーローヒロイン型破り言動、決まり事、そして混乱。これらは一言で変異(variantes)とされる。変異の語感は単なる(形体の)変容にすぎず、実際(歴史神話学では)その意味の枠内で用いている。その形体変異に止めずに形の背後に隠れる「思想」を見極める、これが神話を解析する手段である。

何やらの原理(思想)に神話は統制されるのだから、ならば各神話、各要素を分解するのではなく、見つめ対照して重なりやら離反やらを一定の決まりで解明する。星雲を眺めて秩序を覚えるのだ。
こうレヴィストロースが教えていると理解する。

(神話学第3巻食事作法の起源、188頁に神話研究の手法として一時もてはやされた「フィンランド学派」を批判するくだりがある。学派に属す諸学(トンプソンなどが読めるが小筆には不明)神話ごと要素(登場する動物、人物)に分け、どの民族神話がより多くそれら要素を取り込んでいるかを数え、神話を創成した核の地域民族、後の伝播を類推し、語族の形成民族の移動などと結びつけた。すると各要素は物語の筋(シーケンスとレヴィストロースは言う)から分離・分解されてしまう。
この「分解手法」を彼は批判する。

(フィンランド学派=歴史神話学の説明は 神話から物語へ2(2019年10月31日投稿)クリックで飛ぶ)

 

A partir de l’experience ethnographique, il sagit de dresser un inventaire des enceintes mentales, de reduire des donnes apparemment arbitraries a un ordre, de rejoindre un niveau ou une necessite se releve, immanente aux illusions de la liberte>(序曲ouverture18頁)

拙訳:心に孕む事柄目録を立ち上げる、気ままに見えている事象をある順番に則り整理する、必要性が立ち上がる水準に結びつける、民族誌学の経験とは自由であるとの内なる幻想とを結びつけているのだから。

皆様にはフランス語を明快に理解する達人も多くと存じます。<A partir…>を原文で読めば文言は簡潔、文脈も乱れていない。しかし含蓄の流れ豊かなその意味が、小筆には理解しにくい。直訳の日本語にするとワケの分からない「クセジュ文庫」化してしまう(原典が邦訳されたらより難文に昇華してしまう例をたとえただけであって、クセジュへの悪口ではない)。しかしこの段は「生と調理」さらに構造神話学の方法論を理解する鍵となるので、読み過ぎを覚悟しても意訳を試みんとす;

取りまとめるコツは文言を「秩序=idee思考」側と「混乱=forme見える形」側とに区別する(現象論の思考を拝借)。思考と形体の「構造」に立ち戻る。

すると;

un niveau「基準」は不定冠詞なので特定されていないが、研究者(レヴィストロース)が定めようとする「目標」とみよう。une necessite「必要性」はその基準を示してくれる何らかの要素。神話に喩えれば素材、登場人物、神話群がある筋に収斂する事情などかと探りを入れる。すると、

<民族誌学の経験譚からすべてを始めるのだが、それらは整理されていないからモノ(混乱)の状態で、一読すると(神話の出来事が)arbitraire(気まま)に思える。しかし素材や筋道(これらがune necessite)を、たくみに順番(ordre)に沿って整理すれば(=reduire des donnes a un ordre>ある目標(un niveau)向かっていくことになる。集積された神話資料の混乱状態が解決される。そもそも民族誌学が「自由である」とは幻想なのだから>

un niveau(基準)とune necessite(必要性)はともに秩序を求める言葉だから、思考の側にあり、神話研究であれば分析方法となる。(民族誌学の集めた)雑多な第一資料をこれら(niveaunecessite=思考則)を使って整理すれば、混乱しているかに見える(語られる)神話世界を一定の秩序にまとめられる>

蛇足:民族誌学ethnographie、現地調査を重ね一次の資料を集める。日本で言えば宮本常一であろうか。民族学ethnologieは資料を整理批判して、民族の社会的立ち位置を論じる、柳田国男か。文化(社会)人類学は民族に立脚しつつ広く人類を学ぶ。先学は石田英一郎、喩えは小筆の独断なので参考程度に。

 

続いて

Derriere la contingence superficielle et la diversite incoherante, semblait-il des regles de marriage, dans les structures elementaires de la parente,un petite nombre de principles simples, au premier abord absurdes, etaient ramenes a un systeme significant>()

拙訳:「親族の基本構造」(レヴィストロース著)が明らかにした事実は制度(思想)としての婚姻である。結婚行動は偶然のなせる組み合わせで、打算などと辻褄が合わない顛末で決められるコトが多いから、そんな解釈(思想が婚姻を規定する)はabsurde不条理(=サルトルの用語を使った背景には彼との論争が発生していた)であるとと批判される。しかしこうした個人行動の背後に見え隠れしている原理を見逃してはならない。偶発と見られる行動が意味深い一つのシステムに統合され、ここに秩序が見えてくる。

(訳者注;親族の基本構造が顕わにした成果の1に、イトコ婚の機能が上げられる。イトコ婚は世界各地で見られ、富の拡散・寡占の防止の社会機能が隠れている….以下はアラカルトで説明している。  をクリック)

 

次の文節に移る。同じく18

plus decisive sera donc l’experience que nous entreprenons sur la mythologie. Celle-ci n’a pas de fonction pratique evidente; a l’enverse des phnomenes precedemment examines, elle n’est pas en prise directe sur une realite differente....>

拙訳:神話学とはより決定的である必要にせまられる。なぜなら、神話は(社会への関与の仕方は)直接的でもなく具体性も持たない。前回(社会への関与が直接的なイトコ婚への分析)とは異なる。

decisive(決定的)、は神話学での考察が決定的であり、何に対して決定なのかは、イトコ婚の思想が実態を決定する以上に、神話の思想と実態は結びつきが強い。前述の「神話には精神が宿り、自己生育、自主活動」に重なります。自律性はより効能的になると捉えます。

 

殿軍にカントを引用している(ouverture P18~19)

En se laissant guider par la recherche des contraintes mentales, notre problematique rejoin celle du kantisme="後略">

文と行の内容解釈に正確を期そう、

contraintes mentales、直訳すれば=メンタルな強制=小筆蕃神は“考え方の基準“をひねり出した。基準とは前述した諸々synthetique やらanaclatiqueなど「考え方のお手本」を指す。次の語”problematique”を「問題取り組み」とすれば上記引用は;

拙訳;上記考え方の基準に導かれるままに思考を進めると、私の問題取り組みはカント主義にたどり着く>

小筆はカント哲学を語れないから広辞苑を引用する「認識は主観の所与を秩序として見分けできる事によって成立する」。しかしこの日本語にしても難しい、transcendantale(先験性)を哲学言語事典(puf出版)に問うと<La connaissance est connue comme une condition a-priori et non donnes de l’experience>思考とは先天的であり、経験から学んでモノにするのではない。これなら何となく分かった(気になった)。先ほどのcontraintes mentalesentendements(理解する力、カント用語である)と結びつければ理解はなお進む(感じを覚えるトカ)。
彼が主張するところは「実地観察で記述する=歴史神話学、民族誌学」などそして、形而上の考察から神話の思考を語るとするのであろう。

 

引用を続ける;<Lethnologue ne se sent pas oblige, comme le philosophe, a prendre pour principe de reflextion les conditions dexcercie de sa propre pensee, afin detendre ces constatations locales a un entendement dont luniversalite ne sera quhypothetique>

拙訳;民族学者は(レヴィストロース自身)は省察するにあたり、一定の基準をとって己の説や主張を、一種の「思考する力」に敷衍するとは、強制されていない。哲学者(カントのこと)とは異なるのはその点である。

レヴィストロースはへりくだっているがここは前提。次行がより重要、(P19

A l’hypothese d’un entendement universel, il prefere l’observation emprique d’entendement collectifs dont les proprieties, en quelque sorte solidifies, lui sont rendue manifestes par d’innombrables systemes concrets de representations>

拙訳;「考える力」<entendement>は普遍的(人類に共通)であるとの説をもとにして(カントがそう言っている)、彼(民族学者、レヴィストロース)は観察にあたって「集団としての考える力」を取り上げる。なぜなら、彼(レヴィストロース)には社会のいろいろな慣習やシステムの中に、その(集団性の)特質が滲み出ている様が明確に見えるからである。

=どんな民族にあっても考える力は普遍なので、婚姻の仕組みや贈答しきたりなどが似通う理由はその普遍に立脚している(=親族の基本構造で論証)。その手順で神話(これも集団としての考える力)を解析するとの宣言である。

神話の「身の丈」がその立ち位置の分析と解説でおおよそ見えてきた。

 

雑誌Magazine litteraireに掲載されたレヴィストロース論文(198512月号)表題は「哲学者の役目」顔写真の左側にサルトルへの言及が読める。「彼には多大な尊敬を抱いているが、面と向かって図らずも論争してしまった。彼の考えが科学の思考に背をむけているからである」と書かれている(右コラム)

神話の根底、神話学の立ち位置を以上にまとめました。

(生と調理の1 了)  2に移る