レヴィストロースが面談したと見なされるアフマディ教団カリフ(2代目)マフムードアフマディ(ネットから)釈迦、ソクラテスなども救世主とみなす教義
現在のBarra dos Bugres。レヴィストロースが訪れた80年前、ガラガラヘビの跋扈する面影はもはやない。ネットから。
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ボロロ族酋長 
   信じやすさの機能  (人類学 2019年8月30日投稿)  サイト主宰 蕃神(ハカミ)義男
 

本稿は平成31429日昭和の日に土俗医師の失敗としてGooBlogに投稿した加筆です

悲しき熱帯(Tristes Tropiques、レヴィストロース著1956年出版)に興味深い逸話が紛れ込んでいた。ブラジルマトグロッソ地の先住民Nambikuwara族の現地調査に向かう旅、Barra dos Bugresなる小村(bourgade) に立ち寄った。現地人から聞いた話として;

毒蛇に咬まれた者への治療と予防をもっぱらとする土俗医師がいた。患者がでると呼び出され村に向かう。ポルトガル語ではcurandeiroとしている、仏語curer治療の類推でその仕事が治療師と見当はつく。この訳にrebouteux☆☆をレヴィストロースは用いた。

その治療とは

il commencait par piquer l’avant bras du malade avec des dents de boa. Ensuite il tracait sur le sol une croix avec de la poudrea fusil, qu’il emflammait pour que le malade etendit le bra dans la fumee.....( 312)

訳;ボア(大蛇)の牙で患者の咬まれた前腕を突く、地に火薬で十の字を描いて火をつけ、前腕を煙に曝す….最後にcachaca(地場蒸留のラム酒)を患者に呑ませて終了。

 

☆ネット検索すると現在の人口31千人、7200平方メートル。ちょっとした市に成長している。

☆☆土俗医師、俗医師と訳したが、スタンダード辞書に骨折医、robertでは経験的手法を用いる治療師とある。西欧を起源とする医学とは別の系統、対症療法の医学である。

 

村にturma de poiero(薬草)採りの一団を率いる男が滞在した。治療の手際を見て俗医師に「日曜まで滞在しないか、薬草採りの手下が到着する。奴らに予防術(vacciner免疫)を施してもらいたい」と依頼した。報酬は一人あたり5フラン、人数は書かれてないが10人とすると50フラン。俗医師はすぐさま引き受けた。

この価値を推量する。フランスは1960年に100分の1のデノミネーションを実施した、戦前1938年の話しだから対応する価額は500フランとなる(現在フランはユーロに切り替わっている)。固定相場制時期(戦後から1973年まで)の円フラン相場は71円、これをフランの価値の高低を気にせず適用すると5x100x71で一人あたり\35,500.-の計算となる。10人揃うわけだから\355,000。ちょっとした臨時収入となる。

 

日曜を翌日に控える土曜の朝、集団住居の入り口の辺り、犬のけたたましい吠えが止まない。cascavel、毒蛇がとぐろを巻いていた。立てた尻尾を振り鳴らすガラガラのかすれ音から怒り狂っていると分かる。薬草採り団長は俗医師に蛇退治を命じた。医師は拒否する。団長は「お前は免疫を受けているだろうに、蛇を捕まえられないなら、怪しい術だ。手下への免疫は取りやめだ」けしかけた。

35万円の報酬は諦めきれず、蛇に手を出し咬まれて俗医師は死んだ。以上が現地人から聞いた土俗医痛恨の失敗譚。

これを語った現地人は「実は私も予防を受けた、最後に免疫効果を確かめるために腕を蛇に咬ませた。その蛇は無毒の蛇だった」と打ち明けた。ここに語られている人々の判断、そして考え方についてレヴィストロースはそれが「ブラジル内陸部に共通」する心情としている。さらに;

de meme , pensait sans doute mon interlocuteur de Rosario> ロザリオアルゼンチン二番目の市当時出身の通訳もこのブラジル内陸の民衆判断を同じに持つとした。であれば南米の住民に広く伝わる判断、考え方の様態である。

いったいこの「判断、考え方」とは何か。

レヴィストロースの注釈が入る。

il  llustre bien ce mélange de malice et de naivete – a propos d’incidents tragiques traites comme de menus evenements de la vie quotidienne qui caracterise la pensée populaire de l’interieur du Bresil>

主体のil現地人の話(le recit)を指す。訳;悲劇的な結末を日常の出来事のごとく取り扱う語り口から、思考に信じやすさと悪意の入り交じり模様が浮かびあがり、ブラジル内陸民衆の心情はかくありと伝えている。

naivete信じやすさとmalice悪意」が南米に広く伝わる心も持ち方、行動の起因であると。

maliceの意義は「悪意」であるが「悪意の籠もった口出し」。すなわち意識のみならず、具体的行動にも及ぶ(辞書ではaptitude a FAIRE le mal大文字は筆者)。すると上の逸話ではnaiveteは占いまがいの免疫術をすぐさま信じた薬草団長の判断を指し、信じた裏腹に悪意が蠢き、俗医師に毒蛇を捕まえろとの指示を下し、これが悪意maliceに他ならない。

幼稚さとその反動狡猾さ、両者を心の内に渾然と秘めるブラジル内陸部の、さらには広く南米の民衆の典型がこの逸話に読めた。

 

一通りを聞き(書き)終えたレヴィストロースは、ラホール(パキスタン)に立ち寄りアフマディ教団長から歓待を受けた晩餐での会話を思い出した。3の逸話の時系列が錯綜するので、順番を期すと;

まず土俗医師の話が1938年の現地調査の旅。次は1947年エジプト、パキスタン、インド、ビルマ(当時)を巡った飛行機の旅。エスカルした各空港に降り立ち、内陸に足を伸ばし、ラホールでアフマディ教団(ラホール分派)カリフから歓待を受けた。両の出来事を思い返して、南米先住民とアフマディ派の思考と判断が同一線上に位置すると気付いたのは本書の執筆時の1955年。

アフマディ教団はネオムスリムとも称された(Wiki調べ)。活動、教義には小筆理解が及ぶところではないがイスラム正統派に較べ柔軟さが際だつ(ようだ)。

レヴィストロースの解釈を聞こう;

Les Ahmadi s’ecartent de l’orthdoxie, notamment par l’afirmation que tous ceux qui se sont proclames messies au cours de l’histoire au nombre desquels ils comptent Socrate et le Boudah)le furent effectivement : sinon Dieu aurait chatie leur impudence.

訳;アフマディ教団はイスラム正統派と離れた教義を持つ。救世主(メシア)と称した歴史上の聖人を認める点が独自である。そのなかにはソクラテス、ブッダも救世主と数えている。なぜなら(もしも彼らが似非であったなら)その不用心なる言動を神は罰していた筈だから。

(訳注:Boudahを大文字で始めてle(あの)を冠した。幾聖かのブッダ(如来)のうち歴史で確かめられている「あの人」の言い回しで、それは釈迦である。仏教解釈においてレヴィストロースの見識が読める一文である)

アフマディ教団のなかでラホール分派は少数ながら、当時(1947年)はなお一層の独自性(柔軟性)を保っていた(らしいWikipedia)。ラホール訪問の年の分派教団長はマフムード。語った相手の名前地位の記録は文中に見あたらないが、発言の大胆性、異端と目される教義根幹に結びつく内容からして、教団長猊下であると推測する次第です。

 

次が難文;

les puissances surnaturelles provoquees par le rebouteux, si sa magie n’avait ete reelle, auraient tenu a le dementir en rendant venimeux un serpent qui ne l’etait pas habituellement>

(言葉は易しい、しかし幾度か読み返しても文脈が意味不明、6回目になんとか解釈にこぎ着けた、つもりになった)

訳;俗医師がまやかし者であったのなら、呼び込んだ超自然の力は彼をすっかり欺いて、普段は毒持ちでない蛇を毒蛇に変えてしまった筈だ。

無毒の蛇を毒蛇に変えたとしたらーが理解できなかった。無毒の蛇が出てくるのは、免疫術の被険者を咬ませる効能判定の場のみ。そこで;

意訳の前提;俗医師を「もし正しくなかったら」と仮定法過去の否定文にしているので、彼が「正しかった」のは事実。正しいとは文脈からして神に欺かれなかった事である。よって呼び出した魔術も「正しい」。神、あるいは超自然に欺かられなかったから彼は、無毒蛇を無毒蛇のままで免疫術の検証に使った。俗医師は免疫効果を調べたのではなく、己の術の正義さを自然が認めるかを確認したのだ。そして自然は自然のまま、変化はなかった。無毒は無毒のまま、それ故に、毒蛇は毒の威力を保ったまま、俗医師にかみついた。

 

意訳;無毒の蛇を被術者に咬ませるはいつものやり方。当然、被険者(通訳)に毒害は及ばない。それ故に被検者(ロザリオ市の通訳)はこの通り生きているから、俗医師は施術の正当を主張する。そして己の免疫術は「毒に有効だ」と正統性を丸呑みにして(naivete)藪に入って毒蛇に噛まれたら、正当なる施術の効果を信じ治癒に励む(しかない)。イカサマにのめり込まなかった理由とは、彼は医であって超自然を呼び寄せる魔術ではないから。

 

被険者はnaivete信じやすさを持つから咬ませ蛇は無毒と知るけれど、彼の正統性を認めるから(naivete)免疫有効性に疑問を抱かない。施術の後に藪に入るに怖じ気づかない。俗医師が咬まれ死んだ理由は、彼を欺かない自然には毒蛇に毒があるとの真理が継続していたから。

 

文言と行句の意味がかくと分かった(コトにして)解釈に入る。

2の挿話(土俗医、アフマディ派)の筋は、

1      信じやすさの反応として悪意の口出し、もう一方に寛容が位置する。

2      神は正しきを罰しない、故にソクラテスは聖者。

3      超自然力は土俗医を欺かなかった、そして死んだ。

 

全体主張を解釈するに1~3を筋道がたどれる流れの中にくくらなければならない。いかなる解釈でその作業は可能か。初めの要素は信じやすさ、次の要素には悪意がある。事象に対する人の感性と行動律は自己が持つ自律する部分と、他者へ発露する行動に分かれるとして、両者の様態の関連を2の軸にしてレヴィストロースが語っていると見当をつけられる。

これらを不可解事象への反応、判断そして行動と一括する。不可解には日常些細の事例も含むをも意味する。PDFにまとめた

 

信じやすさに対極するは疑い深さ、これが不可解事象に対する人の反応。この軸を縦にして行動律とする。もう一つの軸とは悪意と寛容を対峙させる。こちらの軸を横にとる。これが精神作用。精神の悪意軸の両の極点でブラジル民衆とラホールのアフマディ派は共通している。皆様からはアフマディ派に「悪意」はない、寛容があるとの反論を受けるであろう。レヴィストロースは悪意と寛容を同じ精神活動の作用、反作用と論じる。

十字の2軸には対立しながらも、あり方としては肯定と否定、作用と反作用と有様の差異を表しているから、事象に立ち向かう精神と行動の作用である。

 

レヴィストロースのとらえ方は精神の背後に「メタ精神」なる深層意識があると想定していると思われる。フロイトの深層心理とも近いか。それはあまねく人類に、共通する論理倫理の底流かもしれない。後の神話学4部作(生と調理など)で、神話の伝播を例証する手段として使われている)

 

ブラジル奥地の土俗医とムスリム聖職者は、判断(信じやすさ)と精神作用(悪意と寛容の軸)、人の素性の有様で同軸に位置していた。

 

そして;

神(自然)をどのように捉えるか。神は彼らをchatier罰しなかった、欺かなかったと述べた。評価するあるいは罰する、この過程を考えてみよう。

「人は無知である、ここを自覚してから物事を論じよう」とソクラテスが考えついた。それを聞いた神は「良くできている、君は正しい」と評価したーこうした小学校の綴り方教室的な流れではない。思索するままに任せるが神からの良き評価で、罰するとはその過程に潜り込み騙し、結語をゆがませる。神と悪魔の常套です。

考え込んで苦心惨憺するソクラテス。神は彼を加護した。思考に潜り込んで欺むくを慎んだ。もし欺かれたとすると(dementir)、どんな人でも真理と離れた倫理を展開してしまう。

頭の隙間に発生したは神由来の錯乱。すると「1,2分考え込めば儂は森羅万象の全てが分かる」哲人ソクラテスは安易に結論を出してしまう。のちのちの哲学も科学も出現しないことになってしまった。

釈迦の修行について日本人は知る。

神が「こいつは偽物だ、如来になれない、懲らしめてやる」と断食中の瞑想に介入したら「空即是色、色即是空」、全てが無常と教える叡智とは正反対、世俗迎合の結論にたどり着いてしまった筈だ。「汝ら衆生、金を稼ぐのだ、盗むのだ。綺麗な嫁さんを娶れるし肉もたっぷり食える。人生は全てが色だ、欲だ」なる似非教義をブッダが広めたであったろうに(過去の仮定法なので歴史事実と異なる)。

 

アフマディ派長老の言葉「罰するchatier」を、ロザリオの通訳は「欺くdementir」と言い替えた。ご加護、そして罰。神と人の相克を、ラホールの一神教徒とブラジル奥地の先住民が同じ方向でつながる。交差する連続性の分析を、かくレヴィストロースが語った。2の大陸の隔たりと3の大洋の分断を乗り越えて、人の精神と行動発露の様態が、共通土台の上部に築き上げらている証拠である。
西欧尺度になぞればドストエイフスキィ「白痴」、あるいはゲーテ描くファウストの狂気と重なる。

PDFに戻れば、信じやすさと疑い深さ、悪意と寛容。神の許容と欺きと2の軸交差の座標原点に赤ちゃん無垢の心。歳ふるに疑いと悪意に染まる人の性(サガ)が読める。歴史上の人物をその位置を入れた。サルトルはアンガジュマンに参加しろなど他者攻撃が執拗なので悪意maliceの濃い位置に押し込めた。
神に許される者と欺かれる者を(小筆の勝手解釈で)決めつけた。

 

補:レヴィストロースはサンタクロース伝承を肯定感の強い「crudilite信じやすさ」で分析している(悲しき熱帯ボロロ編、死者と生者Les mots et vivants)。無条件で信じてしまうnaiveteには否定感が漂う、論理性を前面に出したら受け入れられない事柄(サンタクロースがプレゼントを持ってくる)、子供に交じってそのサンタ伝説を信じようと試みる親の態度が社会、家族の維持に役立つと主張する。ボロロ族の生死観と重ね合わせている。(悲しき熱帯の真実を読む、をご参照)。

 

本日は令和元日、新天皇陛下徳仁様のご即位を祝い弥栄を祈念します。部族民通信スタッフ一同)唐突ながらブログ投稿の最後尾にこの一文付けました。令和の初投稿は信じやすさの社会効能でした。