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王光美について
大革命、発端は個人の怨恨 2020年1月15日投稿

文化大革命で紅衛兵から弾圧受け、獄死(末期には入院)した劉少奇の連れ合いが王光美(1921~2006年北京)。彼女の立ち振る舞いの優雅さ、美形の様は中国共産党高官の細君達でも抜きんでていたと記事を読んだ(江青に妬まれた女、譚○(路に王の編が付く)美著、NHK出版)。他の細君達の名前はネットで調べられるが、写真は見あたらない。比較が出来ないから何とも言えないのだが、ただ一人、毛沢東夫人の江青の写真は書物、ネットで見つけられる。

顔の造りやスタイルを論じるのは好ましくないので、社会性を比べると江青の積極さは際だつ。党主席夫人の立場を恣にして政治に口を出し、後に文革4人組を率いて国政を牛耳った江青。彼女に比べ王光美は家庭に入って家事、育児(先妻の子と合わせ6人の子育て)に専念し、社会的発展には無頓着だった。

外交は別となる。

国家主席劉少奇による外交が始まった。極めつきは19634月の東南アジア4カ国訪問。光美は夫に同伴した。この彼女の姿が国際的に大きな反響をよんだ。それまでの中国とは排他、閉鎖、秘密の印象が強かった。外国訪問団の歓迎などで党幹部の映像は流されるがそこに夫人、、女性が交わる事はなかった。共産党高官夫人の実物を世界が初めて見た、洗練された立ち振る舞いに世界が驚いたのである。

 

当然中国にも映像は流れる。光美の評判が高まる以上に江青に妬み心が燃えてきた。その座こそ「党主席の毛(党の序列一位)夫人が占めるべきだ、私への賛美を立美が盗んだ」と逆恨みした。

 

毛沢東は首脳外交を行っていない。

劉少奇と王光美、1961年9月、国賓客見送りとある

国家「元首」は毛にあり中国の元首とは皇帝であり、皇帝は諸国訪問などしない。諸国から派遣される使節を、その格式に応じて饗応するのが中国外交である。かつてはそれを朝貢と呼んだ。帝国の外交プロトコルが抜け切れていなかった故に第二位者、国家「主席」の訪問外交なのである。

故に元首夫人の江青は、諸国訪問などできない。

普通の人ならその立場を受け入れるが、江青は受け入れない。その分嫉妬がいやまさに噴き上がる。

1966年に勃発した文化大革命の初期に、紅衛兵をその居宅に差し向け、北京大学に引き連れつるし上げた(67年)。この演出のために江青は「王光美糾弾専門小組」を結成した。後にお先にも、江青が専門小組を立ち上げたのはこれ一回である。

 

文化大革命では政治家、行政官、教師、芸術家など多くが公開の場で自己批判、すなわち三角帽子を被らされ、罪状を書いた板符を下げさせられるつるし上げの恥辱にさらされた。しかしそれらは全て男である。女性でこんな見せしめに遭ったのは王光美のみ。

 1963年の東南アジア外交、ビルマにて

(写真はいずれも江青に妬まれた...から)


毛沢東夫妻はどちらを取っても「疑い深い心理、悪意の行動」の実行者である。それ故PDFの座標に置けば二人して左下の特異域の住民である。文化大革命とは江青には王立美への怨恨はらし、毛沢東には権力を簒奪した実権派首魁の劉少奇への復讐、引きずり下ろしであった。

一方が他方を攻撃した。大革命とは名ばかり、個人レベルの腹いせが発端となった証しである。
劉少奇は開封の病院に移され、治療を受けることなく放置されたまま、1969年11月に死去した。生き残った家族に通知されたのは1972年。写真で光美は劉少奇の遺骨を前にする。引き取った帰り機上かと思える。1980年であろう。同年5月に英雄遺骨は黄海に散骨された。しかし何とも、劉少奇の指導者として表情のすばらしさか、光美のやるげない寂しさとの対比にはこれが家族、そして歴史かと涙ぐむ。