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福音書の公式とは:意識する死者対意識の無い死

部族民通信HP投稿の「悲しき熱帯の真実2」に、著者レヴィストロースがbororo族の生死感に触発され、各地民族の「生死考」を論じた一節がある。ヨーロッパの生死感についてキリスト教「福音書の公式」の影響を受けている、「意識を保つ死」の範疇に属するとしている。
もう一つの死とは「意識を持たない死」。
小筆の判断になるが日本人は「意識の無い死」を信じる民族に分類されると思うが。

人が死んでも意識を持つ、いや死んだら終わり、意識など持たない。どちらかの決定因に思い当たる節(火葬の率)があるので、取り上げた。

死んでも意識を保つ。なぜなら死者は時が至れば復活し、己が生きた証しの善行Vertusを語らなければ約束の地、天国には向かえない。

そのためには;
死者に懇ろな葬儀(ensevelir)を施す。
葬儀とは屍衣を着せ棺に安置する。屍衣は日本の簡素な経帷子とは異なる、麻の被いの下にしっかりと纏うは本人最上の衣服である。軍人なら勲章飾りの軍服、平民にしても緞子の礼服。
耶蘇坊主からの祝福を受け、絶対に「焼かずに」地に埋め、墓標を建てるまでが儀礼となる。この手順を「土葬」とする向きがあるが、土葬本来の、本邦的な意味とは生身を土に戻すであってこれが日本人の土葬感覚となる。耶蘇のensevelirは生身の葬儀であるが「土葬」と異なる。家族墓を持つ家系であれば、建物内部の空中の一区画が棺の安置の場。明らかに土葬ではない。王侯貴族は石棺に置かれ、教会の内部にensevelirされる。土中に埋められる事はない。
生身を葬儀するのである。

葬儀の執り持ちの金のかけ様が死者と遺族の契約となる。相当お金がかかて、ここまで恩を帰したら死者は満足する。心地よく生者をreconnaissant認識し、感謝するはずだ。後は放っておけば良い。


最後の審判、ミケランジェロ
審判を授ける神の回りの衆生は、裸、背広や軍服など着していないけれど「お骨」ではない。裸の取り巻きは死者を芸術として表現したのであろう。

上述の「福音書の公式」とは何か;

ヨハネ黙示録が伝える「最後の審判」である。キリスト者はこの世の終わりに神が下す審判(jugement dernier)に臨む。神が善人悪人を判定して、善人だけが天国に迎えられると信じる。故にキリスト者は埋葬されても意識を保らなければ天国に行けない。麻衣の下にはとっておきの服装。ドロボー、置き引きや涜神してもそんな悪行など忘れ、土中に埋められても棺桶の中でしっかり善行の記憶を胸に留め、神の審判を待つ。なぜなら生き様の良きを証明するには、生きた姿のまま、金持ちは豪華背広、軍人は制服、貧乏人だってそれなりの姿格好のまま、焼かずに埋葬してもらわないと困る。
焼かれたら残ったお骨が己の生をなんと神に言い訳できるのか。生身で埋める(inhumer)が耶蘇の葬儀(ensevelir)の標準である。

法王は火葬(incinerer)された者でも最後の審判に臨めて、己の言い分を神に申し伝えられると宣言した(1961年)。

しかし今もって、キリスト教徒は灰cendreが神の前に立ち「私はこんなに上等な背広を着て褒賞もたくさん貰った。良き市民、軍人、良き信者だった」を陳述するに想像が及ばない。火葬の比率はフランスで30%、イタリアで10%と少数派である。=Le triomphe de l’incineration, パリ第一大学Philippe Boutry教授、東京恵比寿日仏会館201934日の講演、小筆の聞き取り。日本の火葬率は100%。

(カソリック国での火葬率%には洗礼前の乳児、自殺者、行き倒れ、終身刑徒=本来は死刑の罪、係累不明者、非キリスト者も含む。善良で遺族と契約している耶蘇教徒に限れば、ensevelir祭儀の後に含む埋葬されるから、火葬率はより僅少となろう。(2019年6月30日)
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