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血族」「姻族」女の「贈り手」「貰い手」について

用語について(私見を)語ります。

日本語の血族、姻族、親族から紐解く。
血族の範囲は年齢、出生環境、地域で変異はあるだろうが、民法では「血でつながった6親等内」と規定される。姻族について範囲を定める慣習法は聞かないが、民法は婚姻の由縁でつながる3親等内と定めている。この基準「6親等3親等」を親族とするが、親族なる者への権利義務、その観念が及ぼす義務感には差違があるだろうし、世代によりそうした観念自体への違和もあろう。

血族、姻族の分類の視点が夫であり、民法制定時期(明治中期)大家族、家父長の道徳観に立脚している。「妻にとっての」親族は成り立たず「夫にとっての」の分類規定が「家」の血、姻であるとの観念が強い。

今は男女同権、それならば;
夫から見て妻の叔父叔母、甥姪は親族に入る姻族。しかし妻からの視点では、彼らは血族であり己の甥姪の子、孫も血族なので、親族の範疇である。親族の範囲を血族と姻族で3,6と等親段階を変えると、夫婦にして相異なる親族範囲を持つことになる。親戚の扱いで夫婦は同床異夢で生活している。

そもそも親族なる規定には、言葉はあるモノのその権利義務が見えない。Wikipediaで「ここの条項(血族、姻族)で具体的指針(相続、扶養、婚姻の忌避など)を定めているなかで、親族の概念を導入しても2重の構成となってしまっている」との解説を読む。想像するにかつて;

地縁生業縁などを維持するため婚姻を通して「同盟」確立の戦略があって、姻族を親族として義務などの慣習法があったと思うのだが。それらが生活圏の広域化(さらに民主化運動)で希薄化したのではないか。(知らないから言いたい放題無責任です)



新大陸先住民は婚姻を通しての同盟を「文化」の礎として重要視する。

婚姻、同盟を語るにあたりレヴィストロースは「filial親族「allie姻族」を用いる(邦訳はその概念に近い語を選択した)。しかしそれらの範囲は日本の民法規定よりも狭いと思える。別の対句も彼は用意している。
「女(嫁)の贈り手donneur de femme」「嫁の貰い手preneur de femme」である。こちらは具体的な個人を指す。義務と権利の規定が明確であり、かつ厳守を求められている。

贈り手は女を贈る「権利」を有する者で、女と同じ支族(あるいはバンド集団)が前提だから、(女系社会では)父親は除外される。女の兄弟の長、ないしは母方の叔父、あるいは祖父が同支族なので、それらの筆頭者となる。多くは長兄である。
このように論を進めれば、2連の対句(filial...に対して贈り手...)は同盟形成という「思想」のHeteromorpheであると分かる。
(Heteromorphe,IsomorpheについてはPDFを)

貰い手は個人であり「族」ではない。貰い手には賦役の義務、贈り手には賦役を要求する権利が生じる。この権利義務は「族」の間に発生するのではない、個人と個人の関係である。それ故に日本語の感覚での「血族」「姻族」より範囲が狭いと理解している。

俗神カルサカイベは、妹(複数)の嫁ぎ先に、息子コルンタウに鶉一羽を持たせ、野ブタ一頭との交換を要求した。不等価の交換は成立しなかった。妹達がカルサカイベの息子にブタ皮を投げつけた。

カルサカイベ神話(生と調理 M16右)の血縁図
左図はM15(生と調理の本文中には引用がない)


カルサカイベはこの不等価交換を要求する権利(女の贈り手)持つ。彼の怒りとは妹達が、夫のカルサ...への義務である賦役(不等価交換)に介入し、妨害したことである。すなわち社会維持に欠かせない同盟(賦役義務)を、もっとブタ肉を食いたいという自然の連続性(食欲と食べる間の連続)を持って否定した事にある。この規則破りに対してカルサカイベは彼ら(妹達と配偶者達)を野ブタ(ペッカリ種)に貶めた。この神話を持ってして、先住民は自然に気兼ねなく野ブタを狩猟できる事となった。「元々は人間だったから」

写真の左表においても兄(弟)と姉(妹)の間に縦の破線が立てられる。姉の息子Maranaywaを叔父Tupanが引き連れ、村に出向く。甥をして(少年の)叔母に食物を無心するが、拒否される。Tupanには女の贈り手の権利があった。ここでも懲罰として女(Tupanの姉妹)とその貰い手(夫)をブタに変えた。


(野ブタに成敗の経緯は別のに、クリック)

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